良寛
りょうかん/Ryokan
1758–1831/江戸
- 僧
- 歌人
- 書家
何も持たずに、子どもと遊んだ僧
寺を持たず、越後の草庵で暮らした僧です。托鉢で得たものだけで生き、子どもと日が暮れるまで遊び、飾らない歌と書を残しました。
言葉
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
読み・現代語:災難にあうときは災難にあうのがよい。死ぬときは死ぬのがよい。
三条地震のあと、被災した知人へ送った手紙の一節です。突き放して見えますが、良寛自身も同じ災害のなかにいました。避けられないものを避けようとして苦しむより、受け取ってしまう。慰め方の一つの形です。
出典:良寛の書簡(山田杜皋宛、三条地震の後)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
形見とて 何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
読み・現代語:形見として何を残そうか。春の花、夏のほととぎす、秋の紅葉、それでよい。
良寛の辞世として伝えられる歌です。自分の持ち物ではなく、毎年めぐってくる季節を形見として差し出しています。何も所有しなかった人が、最後に季節を残していく。持たない暮らしの締めくくり方です。
ことばの意味
- 形見
- :亡くなった人が残していく、思い出の品のこと。
出典:良寛の辞世として伝わる歌出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1758年、越後国出雲崎(いまの新潟県)の名主の家に生まれました。家を継ぐ立場でしたが十八歳で出家します。備中(いまの岡山県)の円通寺で十二年修行し、諸国を歩いたのち、四十歳前後で郷里に戻りました。以後、国上山の五合庵などの草庵に住みます。
寺の住職にはならず、托鉢で食べ物を得る暮らしを続けました。子どもと手まりをついて日が暮れるまで遊んだ話、庵に入った盗人に取るものがなくて困った話など、多くの逸話が残っています。奇行のように語られますが、持ち物を増やさない生活を選び続けただけとも言えます。書は当時から評価が高く、和歌や漢詩も多く作りました。技巧を凝らさない字と、日常をそのまま詠む歌が特徴です。1828年の三条地震のあと、被災した知人に宛てた手紙は、慰めの言葉としてよく知られています。
1831年、七十四歳で亡くなりました。最晩年、四十歳年下の尼僧・貞心尼と交わした歌のやりとりが『蓮の露』にまとめられています。
この言葉が映すもの
- 美(簡素・余白・見立て)簡素・余白・見立て
技巧を凝らさない書と歌で、日常のままの景色を残しました。
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
寺の地位や財産を持たず、説いた通りの暮らしを生涯続けています。
- 利他(公のために働く)公のために働く
子どもや近所の人と同じ目線で過ごし、被災した知人には自分の言葉で手紙を書きました。
つながる人
関わりのある人

道元
どうげん/1200–1253/鎌倉・室町
ただ坐ることに、答えを置いた人
宋で学び、日本に曹洞宗を伝えた僧です。悟りを求めて坐るのではなく、坐ること自体が仏の姿だと説き、生活の細部まで修行として書き残しました。

一休宗純
いっきゅう そうじゅん/1394–1481/鎌倉・室町
建前を、笑いで崩した僧
権威や形式をきらい、規則から外れた振る舞いで知られる禅僧です。詩と狂歌で人の建前を突きながら、最晩年には焼けた大徳寺の再建を担いました。

近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「良寛」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「貞心尼」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。

