ことのは年代記
道元の肖像

道元(どうげん)

どうげん/Dogen

1200–1253/鎌倉・室町

  • 僧
  • 思想家

ただ坐(すわ)ることに、答(こた)えを置(お)いた人(ひと)

宋(そう)で学(まな)び、日本(にっぽん)に曹洞宗(そうとうしゅう)を伝(つた)えた僧(そう)です。悟(さと)りを求(もと)めて坐(すわ)るのではなく、坐(すわ)ること自体(じたい)が仏(ふつ)の姿(すがた)だと説(と)き、生活(せいかつ)の細部(さいぶ)まで修行(しゅぎょう)として書き残(かきのこ)しました。

言葉

仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふ也(なり)。自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり

読み・現代語:仏(ふつ)の道(みち)を学(まな)ぶとは自分(じぶん)を学(まな)ぶことであり、自分(じぶん)を学(まな)ぶとは自分(じぶん)を忘(わす)れることだ。

『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』現成公案(げんなるこうあん)の一節(いちせつ)です。自分(じぶん)を深(ふか)く見(み)ていくと、最後(さいご)には自分(じぶん)へのこだわりが薄(うす)れる、という順序(じゅんじょ)を示(しめ)しています。自分探(じぶんさが)しの答(こた)えが自分(じぶん)の外(そと)にある、という逆向(ぎゃくむ)きの見方(みかた)を教(おし)えてくれます。

ことばの意味

仏道(ぶつどう)
:仏の教えにしたがって生きる道のこと。

出典:道元(どうげん)『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』現成公案(げんなるこうあん)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

後日(ごじつ)を待(ま)って行道(ぎょうどう)せんと思(おも)ふことなかれ。ただ今日今時(きょういまどき)を過(す)ごさずして、日々時々(ひびときどき)を勤(つとむ)むべし

読み・現代語:いつかやろうと思(おも)ってはいけない。今日(きょう)この時(とき)を逃(のが)さず、日々(ひび)その時々(ときどき)に努(つと)めなさい。

弟子(でし)が道元(どうげん)の言葉(ことば)を書(か)きとめた『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』にある教(おし)えです。準備(じゅんび)が整(ととの)ってから始(はじ)めるのではなく、今日(きょう)の分(ぶん)をやることが修行(しゅぎょう)だと説(と)いています。先延(さきの)ばしを戒(いまし)める言葉(ことば)として、いまも引(ひ)かれます。

出典:『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

この人の歩み

1200年(ねん)、京(きょう)の貴族(きぞく)の家(いえ)に生(う)まれました。幼(おさな)くして両親(りょうしん)を失(うしな)い、その経験(けいけん)から世(よ)の無常(むじょう)を強(つよ)く意識(いしき)したと伝(つた)えられます。比叡山(ひえいざん)で学(まな)びますが、「人(ひと)はもともと仏(ほとけ)なら、なぜ修行(しゅぎょう)が要(い)るのか」という問(と)いに答(こた)えを得(え)られませんでした。1223年(ねん)、宋(そう)へ渡(わた)ります。

各地(かくち)の寺(てら)を回(まわ)るなかで、天童山(てんどうさん)の如浄(きよし)に出会(であ)いました。そこで受(う)け取(と)ったのが、ひたすら坐禅(ざぜん)する「只管打坐(しかんたざ)」の教(おし)えです。1227年(ねん)に帰国(きこく)し、京(きょう)や深草(ふこそ)で教(おし)えを説(と)いたのち、1244年(ねん)に越前(えちぜん)(いまの福井県(ふくいけん))へ移(うつ)って永平寺(えいへいじ)を開(ひら)きました。都(と)から離(はな)れ、権力(けんりょく)に近(ちか)づかない道(みち)を選(えら)んでいます。主著(しゅちょ)『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は九十(きゅうじゅう)を超(こ)える巻(まき)からなり、坐禅(ざぜん)の作法(さほう)だけでなく、食事(しょくじ)の作り方(つくりかた)、器(うつわ)の洗(あら)い方(かた)、掃除(そうじ)の仕方(しかた)まで書(か)かれています。日常(にちじょう)の一(ひと)つ一(ひと)つを修行(しゅぎょう)とみなしたためです。

1253年(ねん)に亡(な)くなりました。『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は難解(なんかい)で長(なが)く一部(いちぶ)の人(ひと)にしか読(よ)まれませんでしたが、近代以降(きんだいもっくだ)、哲学(てつがく)の書(しょ)としても読み直(よみなお)され、国内外(こくないがい)に読者(どくしゃ)を広(ひろ)げています。

この言葉が映すもの

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    結果(けっか)を求(もと)めずに坐(すわ)り続(つづ)けること自体(じたい)を修行(しゅぎょう)とし、生涯(しょうがい)その姿勢(しせい)を変(か)えませんでした。

  • 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる

    権力(けんりょく)に近(ちか)い京(きょう)を離(はな)れ、越前(えちぜん)の山(やま)に移(うつ)って、説(と)いたとおりの暮(く)らしを続(つづ)けています。

  • 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意

    食事(しょくじ)の作り方(つくりかた)や器(うつわ)の洗(あら)い方(かた)まで書き残(かきのこ)し、日常(にちじょう)の細部(さいぶ)を修行(しゅぎょう)として扱(あつか)いました。

関わりのある人

  • 一休宗純の肖像

    一休宗純(いっきゅうそうじゅん)

    いっきゅう そうじゅん/1394–1481/鎌倉・室町

    建前(たてまえ)を、笑(わら)いで崩(くず)した僧(そう)

    権威(けんい)や形式(けいしき)をきらい、規則(きそく)から外(はず)れた振る舞(ふるま)いで知(し)られる禅僧(ぜんそう)です。詩(し)と狂歌(きょうか)で人(ひと)の建前(たてまえ)を突(つ)きながら、最晩年(さいばんねん)には焼(や)けた大徳寺(だいとくじ)の再建(さいけん)を担(にな)いました。

  • 良寛(りょうかん)

    りょうかん/1758–1831/江戸

    何(なに)も持(も)たずに、子(こ)どもと遊(あそ)んだ僧(そう)

    寺(てら)を持(も)たず、越後(えちご)の草庵(そうあん)で暮(く)らした僧(そう)です。托鉢(たくはつ)で得(え)たものだけで生(い)き、子(こ)どもと日(ひ)が暮(く)れるまで遊(あそ)び、飾(かざ)らない歌(うた)と書(しょ)を残(のこ)しました。

近い言葉の人

  • 日蓮の肖像

    日蓮(にちれん)

    にちれん/1222–1282/鎌倉・室町

    国(くに)に向(む)かって諫言(げん)した僧(そう)

    日蓮宗(にちれんむね)の開祖(かいそ)です。続(つづ)く災害(さいがい)と飢饉(ききん)の原因(げんいん)を国(くに)の姿勢(しせい)に求(もと)めて幕府(ばくふ)に諫言(げん)し、庵(あん)を焼(や)かれ、二度(にど)の流罪(るざい)と処刑寸前(しょけいすんぜん)の場面(ばめん)を経験(けいけん)しました。

  • 北条政子(ほうじょうまさこ)

    ほうじょう まさこ/1157–1225/鎌倉・室町

    御家人(ごけにん)の前(まえ)で、演説(えんぜつ)をした人(ひと)

    源頼朝(みなもとよりとも)の妻(つま)であり、夫(おっと)と息子(むすこ)たちの死後(しご)、実質的(じっしつてき)に幕府(ばくふ)を率(ひき)いた人(ひと)です。承久(うけたまわひさ)の乱(らん)では御家人(ごけにん)を前(まえ)に演説(えんぜつ)して結束(けっそく)させました。

  • 鴨長明の肖像

    鴨長明(かものちょうめい)

    かもの ちょうめい/1155–1216/鎌倉・室町

    災害(さいがい)の記録(きろく)を、書き残(かきのこ)した人(ひと)

    『方丈記(ほうじょうき)』を書(か)いた随筆家(ずいひつか)です。都(と)を襲(おそ)った火災(かさい)・飢饉(ききん)・地震(じしん)を具体的(ぐたいてき)に記録(きろく)し、小(ちい)さな組み立(くみた)て式(しき)の庵(あん)で晩年(ばんねん)を過(す)ごしました。

同じ時代の人:鴨長明、北条政子、親鸞、日蓮

出典

肖像:Unknown authorUnknown author/http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress015/宗教/禅宗/道元/ , https://web.archive.org/web/20200125164535/http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress015/宗教/禅宗/道元//Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。