柳宗悦
やなぎ むねよし/Muneyoshi Yanagi
1889–1961/大正・昭和(文化・学術)
- 思想家
- 美術評論
無名の職人の器に美を見た人
日々使われる日用品にこそ美しさがあると説き、民藝運動を始めた思想家です。各地を歩いて名もない職人の手仕事を集め、記録に残しました。
言葉
用と美が結ばれるものが工芸である
読み・現代語:使うためであることと、美しいことが結びついたもの。それが工芸である。
民藝を説明するときの中心の一文です。飾りのために作られた品ではなく、使うために作られた品のなかに美を探しました。何のために作られたかを、美しさの外に置かない。ものの見方をひっくり返す定義です。
出典:柳宗悦『工藝の道』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である
読み・現代語:反抗する彼らよりも、もっと愚かなのは、押さえつけている私たちのほうだ。
1919年、朝鮮での運動が弾圧された直後に発表した文章の一節です。取り締まる側にいる自国に向けて書かれました。美を語る人が、同じ筆で政治について書いた例として、いまも読まれています。
出典:柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」(1919年)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
この人の歩み
1889年、東京に生まれました。学習院から東京帝国大学へ進み、雑誌『白樺』の同人として西洋の美術や宗教哲学を紹介します。転機は朝鮮の陶磁器との出会いでした。名前の残らない職人が作った日常の器に、強く惹かれます。1919年には、植民地支配のもとで起きた運動への弾圧に対し、朝鮮の人々に向けた文章を新聞に発表しました。
1925年、陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎らと「民藝」という言葉を作ります。民衆的工芸の略で、無名の作り手が実用のために作った品を指しました。柳は各地を歩いて器や布や紙を集め、その土地の技法を記録します。1936年には日本民藝館を開きました。主張の中心は、美は使うことのなかにあり、飾るために作られたものだけが美術ではない、という点にあります。沖縄の紅型や織物、木喰の仏像など、当時見過ごされていたものを取り上げ直しました。
1961年に亡くなりました。民藝という見方は、その後の日本のデザインや工芸の評価に影響を残しています。
この言葉が映すもの
- 美(簡素・余白・見立て)簡素・余白・見立て
飾るための美ではなく、使うことの中にある美という基準を示しました。
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
名前の残らない職人の手仕事を集め、技法ごと記録に残しています。
- 利他(公のために働く)公のために働く
取り上げられずにいた土地の工芸や、弾圧された人々のために筆を執りました。
つながる人
関わりのある人

千利休
せん の りきゅう/1522–1591/戦国・安土桃山
引くことで、豊かさを見せた人
堺の商家に生まれ、狭い茶室と簡素な道具で、もてなしの形そのものを作り替えた茶人です。足すのではなく引くことで豊かさを見せる方法を示しました。
岡本太郎
おかもと たろう/1911–1996/大正・昭和(文化・学術)
調和より、ぶつかることを選んだ人
パリで十年を過ごし、縄文土器の激しさに日本美術のもう一つの系譜を見た芸術家です。大阪万博の太陽の塔を作りました。
近い言葉の人

宮沢賢治
みやざわ けんじ/1896–1933/大正・昭和(文化・学術)
ほとんど読まれずに書き続けた人
岩手で農業を教えながら詩と童話を書いた人です。生前に世へ出た作品はごくわずかで、手帳や原稿が見つかった死後に読者が広がりました。

樋口一葉
ひぐち いちよう/1872–1896/大正・昭和(文化・学術)
十四か月で書ききった作家
貧しさと闘いながら小説を書いた作家です。最後の一年余りに『たけくらべ』などの代表作が集中し、二十四歳で亡くなりました。

岡倉天心
おかくら てんしん/1863–1913/明治
捨てられかけた日本美術を残した人
西洋化のなかで軽んじられた日本の美術を再評価し、美術学校を作った人です。英語で書いた『茶の本』は各国で読まれました。
出典
- ウィキペディア日本語版「柳宗悦」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「民藝運動」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「日本民藝館」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。