牧野富太郎
まきの とみたろう/Tomitaro Makino
1862–1957/大正・昭和(文化・学術)
- 植物学者
- 植物画
小学校を中退した植物学者
小学校を二年で中退し、独学で植物学を修めた学者です。新種や新変種を千五百以上命名し、精密な植物画もすべて自分で描き続けました。
言葉
日本には植物学者が少ないのだから、植物学を志す者にはできるだけ便宜を与え、先輩が後進を引き立ててくださるのが道だろうと思う
読み・現代語:日本には植物学者が少ないのだから、志す人にはできるだけ便宜をはかり、先輩が後輩を引き立てるのが筋だろう。
学歴のない自分が研究の場から締め出されかけたときの言葉として伝えられています。恨みではなく、分野を育てる話に置き換えているのが特徴です。人手の足りない領域では、門を狭くする理由がないという指摘になっています。
出典:牧野富太郎の言葉として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
私は植物の精である
読み・現代語:私は植物の精(せい)そのものだ。
自分を語るときに使ったとされる言い方です。研究対象を仕事の材料とせず、暮らしそのものにしていた人でした。九十歳を過ぎても採集に出かけています。好きであることを隠さないほうが続く、という例でもあります。
出典:牧野富太郎の言葉として伝えられるもの出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1862年、土佐(いまの高知県)の造り酒屋に生まれました。小学校は二年で自主退学しています。そのかわり、山を歩いて草木を採り、手に入る書物を読んで独学しました。二十代で東京の大学の植物学教室に出入りを許され、標本と文献に触れます。学歴がないまま研究を続けたため、教室内での立場は不安定でした。
1888年、日本人の手による最初の本格的な植物学の雑誌を仲間と創刊します。1900年から刊行した『大日本植物志』では、自ら描いた図が高い評価を受けました。発見や命名は生涯で千五百種類を超えます。採集した標本は約四十万点にのぼりました。研究費と印刷費は自分持ちで、家計はたびたび破綻します。大学の職も助手や講師にとどまり、七十代後半まで務めました。晩年に完成させた『牧野日本植物図鑑』は、いまも図鑑の基準の一つとされています。
1957年、九十四歳で亡くなりました。学歴ではなく、歩いた距離と描いた図の量で認められた人です。
この言葉が映すもの
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
小学校を中退したまま独学を続け、専門家として通用する水準に達しました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
採集と記載を七十年以上続け、標本は約四十万点に達しています。
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
図はすべて自分で描き、細部の正確さで学術図の水準を上げました。
つながる人
関わりのある人

宮沢賢治
みやざわ けんじ/1896–1933/大正・昭和(文化・学術)
ほとんど読まれずに書き続けた人
岩手で農業を教えながら詩と童話を書いた人です。生前に世へ出た作品はごくわずかで、手帳や原稿が見つかった死後に読者が広がりました。
湯川秀樹
ゆかわ ひでき/1907–1981/大正・昭和(文化・学術)
日本人初のノーベル賞、その後に平和運動
中間子の存在を予言し、日本人として初めてノーベル賞を受けた物理学者です。受賞後は核兵器をなくす運動に長く関わり続けました。
近い言葉の人
大野耐一
おおの たいいち/1912–1990/大正・昭和(文化・学術)
なぜを五回、繰り返させた人
トヨタ生産方式をまとめた技術者です。現場に立って無駄を数え、原因を五回さかのぼって突き止める方法を定着させました。


出典
- ウィキペディア日本語版「牧野富太郎」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「牧野日本植物図鑑」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。