ことのは年代記
宮沢賢治の肖像

宮沢賢治(みやざわけんじ)

みやざわ けんじ/Kenji Miyazawa

1896–1933/大正・昭和(文化・学術)

  • 詩人
  • 童話作家
  • 農業指導

ほとんど読(よ)まれずに書(か)き続(つづ)けた人(ひと)

岩手(いわて)で農業(のうぎょう)を教(おし)えながら詩(し)と童話(どうわ)を書(か)いた人(ひと)です。生前(せいぜん)に世(よ)へ出(で)た作品(さくひん)はごくわずかで、手帳(てちょう)や原稿(げんこう)が見(み)つかった死後(しご)に読者(どくしゃ)が広(ひろ)がりました。

言葉

わたくしといふ現象(げんしょう)は仮定(かてい)された有機交流電燈(ゆうきこうりゅうでんとう)のひとつの青(あお)い照明(しょうめい)です

読み・現代語:わたしという存在(そんざい)は、仮(かり)に置(お)かれた電灯(でんとう)が一(ひと)つ青(あお)く光(ひか)っているようなものです。

詩集(ししゅう)『春と修羅(はるとしゅら)』の序(ついで)の一節(いちせつ)です。自分(じぶん)を物(もの)ではなく、一時的(いちじてき)に点(つ)いている明(あ)かりのような現象(げんしょう)だと言(い)っています。理科(りか)の言葉(ことば)で自分(じぶん)を書(か)いた珍(めずら)しい一行(いっこう)で、賢治(けんじ)の作品(さくひん)を読(よ)み始(はじ)めるのに向(む)いています。

出典:宮沢賢治(みやざわけんじ)『春と修羅(はるとしゅら)』序(じょ)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

みんなのほんたうの幸福(こうふく)を求(もと)めてなら私(わたし)たちはこのまゝこのまっくらな海(うみ)に封(ふう)ぜられても悔(く)いてはいけない

読み・現代語:みんなの本当(ほんとう)の幸(しあわ)せを求(もと)めてのことなら、このまま真っ暗(まっくら)な海(うみ)に閉(と)じこめられても、悔(く)やんではいけない。

『春と修羅(はるとしゅら)』補遺(ほい)の「宗谷挽歌(そうやばんか)」にある言葉(ことば)です。自分(じぶん)だけの幸(しあわ)せを外(はず)して考(かんが)える、という賢治(けんじ)の一貫(いっかん)した姿勢(しせい)が出(で)ています。農民(のうみん)と暮(く)らし、作品(さくひん)が売(う)れないままだった時期(じき)の生き方(いきかた)とそのまま重(かさ)なります。

出典:宮沢賢治(みやざわけんじ)『春と修羅(はるとしゅら)』補遺(ほい)「宗谷挽歌(そうやばんか)」出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

雨(あめ)ニモマケズ 風(かぜ)ニモマケズ

読み・現代語:雨(あめ)にも負(ま)けず、風(かぜ)にも負(ま)けず。

死後(しご)、手帳(てちょう)に書(か)きつけられた形(かたち)で見(み)つかった詩(し)の冒頭(ぼうとう)です。発表(はっぴょう)するつもりのない自分(じぶん)への覚え書(おぼえが)きでした。理想(りそう)を人(ひと)に説(と)く言葉(ことば)ではなく、こうなりたいと自分(じぶん)に書(か)いた記録(きろく)として読(よ)むと、印象(いんしょう)が変(か)わります。

出典:宮沢賢治(みやざわけんじ)の手帳(てちょう)(没後(ぼつご)に発見(はっけん))出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

この人の歩み

1896年(ねん)、岩手県花巻(いわてけんはなまき)の質屋(しちや)の家(いえ)に生(う)まれました。冷害(れいがい)と凶作(きょうさく)が繰り返(くりかえ)される地域(ちいき)で、家(いえ)は農民(のうみん)から質草(しちぐさ)を取(と)る側(がわ)にあります。その立場(たちば)への居心地(いごこち)の悪(わる)さが、後(ご)の生き方(いきかた)に影(かげ)を落(お)としました。盛岡高等農林学校(もりおかこうとうのうりんがっこう)で土壌(どじょう)や肥料(ひりょう)を学(まな)び、法華経(ほけきょう)に深(ふか)く傾倒(けいとう)します。

花巻農学校(はなまきのうがっこう)の教師(きょうし)となり、生徒(せいと)に慕(した)われました。1921年(ねん)から詩(し)と童話(どうわ)を書(か)き始(はじ)めます。1924年(ねん)に詩集(ししゅう)『春と修羅(はるとしゅら)』と童話集(どうわしゅう)『注文の多い料理店(ちゅうもんのおおいりょうりてん)』を自費(じひ)で出(だ)しますが、ほとんど売(う)れませんでした。1926年(ねん)に教師(きょうし)を辞(や)め、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を作(つく)って農民(のうみん)と共同(きょうどう)で暮(く)らし、肥料(ひりょう)の設計(せっけい)や稲作(いなさく)の相談(そうだん)を無料(むりょう)で引(ひ)き受(う)けます。石灰肥料(せっかいひりょう)の販売(はんばい)にも歩(ある)きました。無理(むり)がたたって体(からだ)を壊(こわ)し、療養(りょうよう)と再起(さいき)を繰り返(くりかえ)します。作品(さくひん)の多(おお)くは発表(はっぴょう)されないまま、手帳(てちょう)や原稿(げんこう)として残(のこ)されました。

1933年(ねん)、三十七歳(さんじゅうななさい)で亡(な)くなります。死後(しご)に発見(はっけん)された手帳(てちょう)の「雨(あめ)ニモマケズ」をはじめ、未発表(みはっぴょう)の作品(さくひん)が次々(つぎつぎ)に刊行(かんこう)され、読者(どくしゃ)が広(ひろ)がりました。生前(せいぜん)の評価(ひょうか)と、その後(ご)の広(ひろ)がりの差(さ)が際立(きわだ)つ人(ひと)です。

この言葉が映すもの

  • 教師(きょうし)を辞(や)めて農民(のうみん)と暮(く)らし、肥料(ひりょう)の設計(せっけい)や相談(そうだん)を無償(むしょう)で引(ひ)き受(う)けました。

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    作品(さくひん)がほとんど売(う)れないまま、亡(な)くなるまで書(か)き続(つづ)けています。

  • 美(簡素・余白・見立て)簡素・余白・見立て

    科学(かがく)の語(かたり)と方言(ほうげん)と祈(いの)りを混(ま)ぜた、ほかに似(に)ていない言葉(ことば)づかいを作(つく)りました。

関わりのある人

近い言葉の人

同じ時代の人:牧野富太郎、樋口一葉、与謝野晶子、平塚らいてう

出典

肖像:Unknown authorUnknown author/Kamakura Museum of Literature archives/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。