平塚らいてう
ひらつか らいちょう/Raicho Hiratsuka
1886–1971/大正・昭和(文化・学術)
- 思想家
- 編集
- 社会運動
女性は太陽であったと書いた人
女性だけの文芸雑誌『青鞜』を創刊した思想家です。女性の自立と母性の保護を論じ、戦後は平和運動にも関わりました。
言葉
元始、女性は実に太陽であつた
読み・現代語:はじめのころ、女性は本当に太陽だった。
1911年、『青鞜』創刊号に寄せた文章の冒頭です。いまは他人の光で光る月になっている、と続きます。権利を要求する言葉から始めず、もとの姿を思い出させる形で始めたところに特徴があります。
ことばの意味
- 元始
- :いちばんはじめのころ、という意味。
出典:平塚らいてう「元始、女性は太陽であつた」(『青鞜』創刊号 1911年)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
私どもは隠された我が太陽を、潜める天才を発現せねばならぬ
読み・現代語:私たちは、隠れてしまった自分の太陽を、内に潜む才能を、外に現さなければならない。
同じ創刊の文章にある一節です。誰かに認めてもらう話ではなく、自分で出すという言い方になっています。書く場が無いなら雑誌を作る、という行動と、この一文はそのまま対応しています。
出典:平塚らいてう「元始、女性は太陽であつた」(『青鞜』創刊号 1911年)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
この人の歩み
1886年、東京の官吏の家に生まれました。日本女子大学校で学びます。当時、女性は結婚して家に入るものとされ、自分の考えを公にする場はほとんどありませんでした。
1911年、二十五歳で文芸雑誌『青鞜』を創刊します。書き手も編集も女性だけの雑誌でした。創刊号に寄せた文章の冒頭が「元始、女性は実に太陽であつた」です。かつて女性は自ら光る存在だったが、いまは他人の光で光る月になっている、と続きます。雑誌は恋愛や貞操、堕胎といった主題を正面から扱い、社会から激しい批判を浴びました。らいてう自身も、年下の画家と結婚の届けを出さずに暮らすなど、当時の規範から外れた生活を選んでいます。1918年からは、与謝野晶子との間で母性保護をめぐる論争を行いました。国が母親を支援すべきだとするらいてうと、経済的自立を先に置く晶子の議論は、いまの子育て支援の論点とも重なります。1920年には新婦人協会を設立し、女性の政治活動を禁じた法の改正に取り組みました。
1971年に亡くなりました。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
女性だけで作る雑誌という、前例のない場を自分たちで立ち上げました。
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
批判を受けても書いた通りの生活を選び、主張と暮らしを一致させています。
- 利他(公のために働く)公のために働く
母性の保護や法の改正など、自分だけでなく次の世代の条件を変えようとしました。
つながる人
関わりのある人

与謝野晶子
よさの あきこ/1878–1942/大正・昭和(文化・学術)
言ってはいけないことを歌にした人
情熱をそのまま詠んだ歌人です。戦地の弟を思う詩や女性の自立を説く評論も書き、十一人の子を育てながら仕事を続けました。


広岡浅子
ひろおか あさこ/1849–1919/近現代の経営者
炭鉱に入り、銀行を興した人
両替商に嫁いだのち、自ら炭鉱と銀行の経営に乗り出した実業家です。晩年は女性が学べる場をつくることに力を注ぎました。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「平塚らいてう」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキクォート日本語版「平塚らいてう」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「青鞜」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。
