
豊田佐吉
とよだ さきち/Sakichi Toyoda
1867–1930/近現代の経営者
- 発明家
- 実業家
機械が自分で異常に気づく仕組みを作った人
大工の家に生まれ、独学で自動織機を発明した人です。糸が切れたら機械が自分で止まる仕組みは、いまも生産現場の考え方の土台になっています。
言葉
障子を開けてみよ、外は広いぞ
読み・現代語:障子を開けて外を見てみなさい。世界は広い。
佐吉の言葉として伝えられ、豊田グループで語り継がれてきました。手元の作業に閉じこもるなという意味です。国内の織機で満足せず、海外の技術と市場を見て回った本人の行動と重なります。
出典:豊田佐吉の語として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
俺は織機をやったから、お前は自動車をやれ
読み・現代語:自分は織機をやった。だからお前は自動車をやりなさい。
息子の喜一郎に語ったとされる言葉です。自分の事業を継がせるのではなく、次の分野へ行けと言いました。守るより移れという判断が、結果として自動車産業への転換を生んでいます。
出典:息子・喜一郎に語ったとされる言葉出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1867年、遠江国(いまの静岡県湖西市)の大工の家に生まれました。学校は小学校までです。母が手織り機に向かう姿を見て、その労力を減らせないかと考えたのが出発点だと伝えられます。二十代で木製の人力織機を発明し、以後、改良を重ねました。
佐吉の発明の核心は、速く織ることではなく、機械が自分で異常に気づいて止まることでした。糸が切れたまま織り続ければ、不良品が大量にできます。そこで、糸が切れたら機械が自動的に停止する仕掛けを組み込みました。この考え方は後に「自働化」と呼ばれ、人が機械につきっきりにならずに済む生産方式の柱になります。1924年に完成した無停止杼換式自動織機は、走らせたまま糸を交換できるものでした。1929年、この特許を英国の織機メーカーへ譲渡します。その資金が、息子の喜一郎が始める自動車事業の元手になりました。
1930年に亡くなりました。小学校しか出ていない発明家が、機械に判断させるという発想を残しています。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
織機の速さではなく、機械に異常を判断させるという別の方向へ踏み出しました。
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
小学校を出たあとは独学で、木製織機から自動織機まで自分で作り上げています。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
母の手仕事を楽にしたいという一点から、四十年かけて改良を重ねました。
つながる人
関わりのある人
豊田喜一郎
とよだ きいちろう/1894–1952/近現代の経営者
織機の会社で、車を作り始めた人
織機メーカーの中に自動車部門を立ち上げた技術者です。必要なものを必要なときに必要なだけ流す考え方を持ち込み、のちの生産方式の土台をつくりました。

田中久重
たなか ひさしげ/1799–1881/幕末・維新
からくり人形から蒸気機関まで作った人
からくり儀右衛門と呼ばれた発明家です。人形細工から万年時計、蒸気機関や電信機まで手がけ、七十代で東芝の源流となる工場を興しました。
大野耐一
おおの たいいち/1912–1990/大正・昭和(文化・学術)
なぜを五回、繰り返させた人
トヨタ生産方式をまとめた技術者です。現場に立って無駄を数え、原因を五回さかのぼって突き止める方法を定着させました。
近い言葉の人
本田宗一郎
ほんだ そういちろう/1906–1991/近現代の経営者
失敗の数を隠さなかった技術者
町の修理工から出発し、二輪車で世界最大の生産規模に届く会社を育てた技術者です。自分の過去は失敗の連続だったと繰り返し語りました。


出典
- ウィキペディア日本語版「豊田佐吉」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「豊田自動織機」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「自働化」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/This image is available from the website of the National Diet Library/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。