
正岡子規
まさおか しき/Shiki Masaoka
1867–1902/明治
- 俳人
- 歌人
- 評論
寝たきりのまま俳句を作り直した人
俳句と短歌を近代の文芸として立て直した人です。結核で寝たきりになった七年の間に、写生という方法を確立しました。
言葉
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
読み・現代語:柿を食べていると、鐘が鳴る。法隆寺の鐘だ。
子規の代表句です。柿を食べたことと鐘が鳴ったことを、ただ並べただけの句になっています。意味づけをしないという方針そのものが作品になった例で、写生という方法を最も短く示しています。
出典:正岡子規の句(1895年)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた
読み・現代語:悟りとは、どんな場合でも平気で死ねることだと思っていたが、そうではなく、どんな場合でも平気で生きていることだった。
『病牀六尺』の一節です。死を覚悟することが悟りだと考えていたが、痛みのなかで生き続けることのほうだと気づいた、という文脈で書かれました。寝返りも打てない状態から出てきた結論です。
出典:正岡子規『病牀六尺』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
この人の歩み
1867年、松山藩の武士の家に生まれました。東京で学び、夏目漱石と親しくなります。学生時代から俳句に取り組み、二十代で新聞社に入って俳句欄を担当しました。1895年、日清戦争の従軍記者として大陸へ渡り、帰りの船で喀血します。結核でした。
以後、病は重くなり、脊椎カリエスにより寝返りも打てない状態になります。その七年間が、仕事の中心となりました。子規が唱えたのは「写生」です。頭の中で作った趣向や、古い言葉の型に頼るのをやめ、目の前にあるものを見たとおりに書く。この基準で、当時の俳諧を批判し、和歌についても『歌よみに与ふる書』で古今和歌集の権威を退けました。病床の限られた視界から、庭の草花、部屋の道具、食べたものを克明に書き続けます。随筆『病牀六尺』は、その記録です。痛みや弱音も削らずに書かれています。門下からは高浜虚子、河東碧梧桐らが出ました。
1902年、三十四歳で亡くなります。俳句と短歌という語が現在の意味で定着したのは、この人の仕事によります。
この言葉が映すもの
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
痛みも弱音も削らずに書き、病床の記録を作品として公にしました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
寝返りも打てない七年間、毎日書き続けて仕事の中心をそこに置いています。
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
古い権威とされた歌集を正面から批判し、写生という新しい基準を立てました。
つながる人
関わりのある人
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「正岡子規」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキクォート日本語版「正岡子規」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「病牀六尺」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/This image is available from the website of the National Diet Library/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。




