本田宗一郎
ほんだ そういちろう/Soichiro Honda
1906–1991/近現代の経営者
- 技術者
- 実業家
- 二輪・四輪
失敗の数を隠さなかった技術者
町の修理工から出発し、二輪車で世界最大の生産規模に届く会社を育てた技術者です。自分の過去は失敗の連続だったと繰り返し語りました。
言葉
私の現在が成功と言われるなら、私の過去は失敗の連続であった
読み・現代語:いまの私が成功と呼ばれるのなら、そこに至る過去は失敗の連続だった。
自分の歩みを振り返って語った言葉です。ピストンリングの失敗、資金繰り、レースでの敗北と、実際に数え切れない失敗がありました。結果だけを見せず、途中も見せる。技術者らしい報告のしかたです。
出典:本田宗一郎の語として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
人間は失敗する権利を持っている。しかし失敗には反省という義務がつく
読み・現代語:人には失敗する権利がある。ただし失敗には、振り返って考えるという義務がついてくる。
挑戦を認めたうえで、条件を一つ付けています。失敗そのものは責めないが、そのままにするのは許さないという線引きです。試作と実験を繰り返す現場で、実際に機能した基準として語られてきました。
出典:本田宗一郎の語として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1906年、静岡の鍛冶屋の家に生まれました。高等小学校を出て東京の自動車修理工場に奉公に入ります。独立して修理業を営みながら、ピストンリングの製造に挑みました。品質が出ず、三十歳近くになってから大学へ聴講に通い、金属の知識を学び直しています。
戦後、自転車に小型エンジンを付けた乗り物から再出発しました。1948年に本田技研工業を設立します。技術は自分が見て、経営は藤沢武夫に任せる形をとりました。1954年、まだ小さな会社の段階で、世界最高峰の二輪レースへの参加を宣言します。参加は五年後で、その二年後に優勝しました。1960年代には四輪へ進み、排出ガス規制に世界で最初に適合するエンジンを実現します。社長を退いたのは1973年で、息子を会社に入れませんでした。会社は同族のものではないという考えからです。
1991年に亡くなりました。うまくいった話より、失敗の話を自分から語る経営者でした。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
小さな町工場の段階で、世界最高峰のレースへの参加を先に宣言しました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
ピストンリングで行き詰まったとき、三十歳近くから学び直しています。
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
経営を任せて自分は現場に残り、最後まで技術の側で判断しました。
つながる人
関わりのある人
豊田喜一郎
とよだ きいちろう/1894–1952/近現代の経営者
織機の会社で、車を作り始めた人
織機メーカーの中に自動車部門を立ち上げた技術者です。必要なものを必要なときに必要なだけ流す考え方を持ち込み、のちの生産方式の土台をつくりました。
井深大
いぶか まさる/1908–1997/近現代の経営者
愉快な理想工場を、設立趣意書に書いた人
焼け跡の小さな工場からソニーを興した技術者です。技術者が自由に働ける場を作ることを、創業の目的として文章に残しました。
近い言葉の人

豊田佐吉
とよだ さきち/1867–1930/近現代の経営者
機械が自分で異常に気づく仕組みを作った人
大工の家に生まれ、独学で自動織機を発明した人です。糸が切れたら機械が自分で止まる仕組みは、いまも生産現場の考え方の土台になっています。

田中久重
たなか ひさしげ/1799–1881/幕末・維新
からくり人形から蒸気機関まで作った人
からくり儀右衛門と呼ばれた発明家です。人形細工から万年時計、蒸気機関や電信機まで手がけ、七十代で東芝の源流となる工場を興しました。
安藤百福
あんどう ももふく/1910–2007/近現代の経営者
四十八歳から、即席麺を作った人
事業に失敗して無一文になったあと、自宅の小屋で即席麺を発明した実業家です。食が足りてこそ世は平らかになると説きました。
出典
- ウィキペディア日本語版「本田宗一郎」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「本田技研工業」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。