手塚治虫
てづか おさむ/Osamu Tezuka
1928–1989/大正・昭和(文化・学術)
- 漫画家
- アニメーション
- 医学博士
描く速さより、描く量で道を作った人
戦後の漫画の形を作り、テレビアニメの仕組みも立ち上げた作家です。生涯に十五万枚を超える原稿を描いたとされます。
言葉
頼むから、仕事をさせてくれ
読み・現代語:お願いだから、仕事をさせてほしい。
最期の言葉として伝えられているものです。病床でも複数の連載を抱えていました。責任感とも執着ともとれますが、描くこと自体が生活そのものだった人の言い方として受け取るのが自然です。
出典:最期の言葉として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ
読み・現代語:描きたい案なら、安売りしてもいいくらい余っているんだ。
晩年のインタビューで語ったとされる言葉です。あと四十年は描けると続けています。量を描き続けた人ほど、次に描きたいものが減らない。手を動かす人の側から見た、発想についての実感です。
出典:晩年のインタビューでの発言として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1928年、大阪に生まれ、宝塚で育ちました。少年時代は昆虫採集と映画に熱中します。大阪帝国大学の医学専門部で学びながら、1946年に漫画家として出発しました。医師免許を取得し、のちに医学博士にもなりますが、仕事は漫画を選びます。
1947年の『新宝島』は、映画のようにコマを割る手法で読者を驚かせました。以後、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』『火の鳥』など、対象年齢も題材も違う作品を並行して描き続けます。扱ったのは、命をどう扱うか、人と人でないものの境目はどこか、といった重い問いでした。1963年には日本初の連続テレビアニメを制作します。限られた予算で毎週放送する仕組みを作りましたが、その低い制作費が業界に負担を残したという批判もあります。若い作家を集めた仕事場からは、多くの漫画家が育ちました。
1989年、六十歳で亡くなります。最期まで連載を抱え、病床でも仕事を求めたと伝えられます。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
映画的なコマ割りやテレビアニメの制作体制など、無かった形を先に作りました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
四十年以上、複数の連載を並行して描き続け、最期まで手を止めていません。
つながる人
関わりのある人
黒澤明
くろさわ あきら/1910–1998/大正・昭和(文化・学術)
何度でも撮り直した監督
『羅生門』『七人の侍』などで知られる映画監督です。脚本を自ら書き、細部に手を入れ続ける仕事のしかたで知られました。
岡本太郎
おかもと たろう/1911–1996/大正・昭和(文化・学術)
調和より、ぶつかることを選んだ人
パリで十年を過ごし、縄文土器の激しさに日本美術のもう一つの系譜を見た芸術家です。大阪万博の太陽の塔を作りました。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「手塚治虫」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「鉄腕アトム」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「火の鳥_(漫画)」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。
