黒澤明
くろさわ あきら/Akira Kurosawa
1910–1998/大正・昭和(文化・学術)
- 映画監督
- 脚本家
何度でも撮り直した監督
『羅生門』『七人の侍』などで知られる映画監督です。脚本を自ら書き、細部に手を入れ続ける仕事のしかたで知られました。
言葉
監督になるにはシナリオを書け
読み・現代語:監督になりたいなら、まず脚本(シナリオ)を書きなさい。
若い人に向けて繰り返し語ったとされる助言です。演出の技術より先に、話を組み立てられるかを問いました。自身も助監督時代に脚本を書き続けています。順番を間違えるなという、実務的な指示です。
出典:黒澤明が若手に語ったとされる言葉出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
人間は、自分自身については正直に語れない
読み・現代語:人は、自分自身のことになると正直には語れない。
『羅生門』の主題について語った言葉として伝えられています。同じ事件を四人が食い違って語る映画でした。嘘つきを描いたのではなく、自分を語るときの避けがたい歪みを描いた、という説明になっています。
出典:自伝『蝦蟇の油』などで語られた『羅生門』についての説明出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1910年、東京に生まれました。はじめは画家を志し、洋画を学びます。1936年、映画会社の助監督試験を受けて採用され、山本嘉次郎に師事しました。助監督時代に脚本を数多く書いています。1943年に『姿三四郎』で監督となりました。
戦後、『酔いどれ天使』で三船敏郎と組み、以後多くの作品を共にします。1950年の『羅生門』は、同じ出来事を複数の人物が食い違う形で語る構成でした。翌年ベネチア国際映画祭で最高賞を受け、日本映画が海外で見られるきっかけになります。1954年の『七人の侍』では、集団の役割分担を描く形と、望遠レンズや複数カメラによる撮影法を確立しました。この形は各国の映画に影響を与えています。妥協しない撮影で予算と日程が延びることも多く、批判も受けました。晩年は国内で資金が集まらず、海外の監督たちの支援で制作した作品もあります。
1998年に亡くなりました。三十本の監督作は、いまも各国で見られ続けています。
この言葉が映すもの
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
脚本から編集まで自分で手を入れ、画面の隅の小道具まで指定しました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
納得するまで撮り直し、資金の集まらない晩年も作り続けています。
つながる人
関わりのある人
手塚治虫
てづか おさむ/1928–1989/大正・昭和(文化・学術)
描く速さより、描く量で道を作った人
戦後の漫画の形を作り、テレビアニメの仕組みも立ち上げた作家です。生涯に十五万枚を超える原稿を描いたとされます。

近い言葉の人
大野耐一
おおの たいいち/1912–1990/大正・昭和(文化・学術)
なぜを五回、繰り返させた人
トヨタ生産方式をまとめた技術者です。現場に立って無駄を数え、原因を五回さかのぼって突き止める方法を定着させました。
本田宗一郎
ほんだ そういちろう/1906–1991/近現代の経営者
失敗の数を隠さなかった技術者
町の修理工から出発し、二輪車で世界最大の生産規模に届く会社を育てた技術者です。自分の過去は失敗の連続だったと繰り返し語りました。

樋口一葉
ひぐち いちよう/1872–1896/大正・昭和(文化・学術)
十四か月で書ききった作家
貧しさと闘いながら小説を書いた作家です。最後の一年余りに『たけくらべ』などの代表作が集中し、二十四歳で亡くなりました。
出典
- ウィキペディア日本語版「黒澤明」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「羅生門_(1950年の映画)」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「七人の侍」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。