ことのは年代記
坂本龍馬の肖像

坂本龍馬(さかもとりょうま)

さかもと りょうま/Ryoma Sakamoto

1836–1867/幕末・維新

  • 志士
  • 商人

敵同士(かたきどうし)を、引き合(ひきあ)わせた人(ひと)

土佐藩(とさはん)を脱藩(だっぱん)し、海運(かいうん)と貿易(ぼうえき)の結社(けっしゃ)を興(おこ)した志士(しし)です。対立(たいりつ)していた薩摩(さつま)と長州(ちょうしゅう)を結(むす)ぶ役目(やくめ)を果(は)たし、新(あたら)しい政治体制(せいじたいせい)の案(あん)も示(しめ)しました。

言葉

日本(にっぽん)を今一度(いまいちど)せんたくいたし申候(いたしもうしそうろう)

読み・現代語:日本(にっぽん)をもう一度(いちど)、洗濯(せんたく)してやりたい。

姉(あね)の乙女(おとめ)へ宛(あ)てた手紙(てがみ)にある一文(いちぶん)です。壊(こわ)すでも倒(たお)すでもなく「洗濯(せんたく)」と書(か)いたところに、この人(ひと)の言葉(ことば)の選び方(えらびかた)が出(で)ています。汚(よご)れを落(お)として使(つか)い続(つづ)ける、という感覚(かんかく)が、その後(ご)の動(うご)き方(かた)とも重(かさ)なります。

出典:坂本龍馬(さかもとりょうま) 書簡(しょかん)(姉(あね)・乙女宛(おとめあて)、1863年(ねん))出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

世(よ)の人(ひと)は我を(われを)何(なん)とも言(い)わば言(い)え 我(わ)が成(な)す事(こと)は我(わが)のみぞ知(し)る

読み・現代語:世間(せけん)が何(なん)と言(い)おうと言(い)わせておけ。自分(じぶん)のすることは自分(じぶん)だけが知(し)っている。

龍馬(りゅうば)の作(さく)として伝(つた)えられてきた歌(うた)です。脱藩(だっぱん)という重(おも)い決断(けつだん)をした人(ひと)の立場(たちば)に、後(ご)の世(よ)が重(かさ)ねてきました。理解(りかい)されないまま進(すす)む時期(じき)の支(ささ)えとして読(よ)まれますが、本人(ほんにん)の作(さく)という確証(かくしょう)はありません。

出典:龍馬(りゅうば)の作(さく)として伝(つた)わる歌(うた)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません

この人の歩み

1836年(ねん)、土佐藩(とさはん)(いまの高知県(こうちけん))の郷士(ごうし)の家(いえ)に生(う)まれました。実家(じっか)は商(あきな)いも営(いとな)み、武士(ぶし)でありながら町(まち)の空気(くうき)に近(ちか)い環境(かんきょう)で育(そだ)っています。剣術修行(けんじゅつしゅぎょう)のため江戸(えど)へ出(で)た時期(じき)に黒船来航(くろふねらいこう)を目の当(まのあ)たりにしました。1862年(ねん)、藩(はん)を脱(だっ)けます。当時(とうじ)の脱藩(だっぱん)は重罪(じゅうざい)でした。

江戸(えど)で勝海舟(かつかいしゅう)に会(あ)い、斬(き)るつもりが弟子(でし)になったと伝(つた)えられます。海軍操練所(かいぐんみさおれんところ)で航海術(こうかいじゅつ)を学(まな)び、のちに長崎(ながさき)で亀山社中(かめやましゃちゅう)、次(つ)いで海(うみ)援隊(たい)を組織(そしき)しました。これは日本(にっぽん)で最初期(さいしょき)の商社的(しょうしゃてき)な組織(そしき)とされます。1866年(ねん)には、犬猿(けんえん)の仲(なか)だった薩摩(さつま)と長州(ちょうしゅう)を仲介(ちゅうかい)し、薩長同盟(さっちょうどうめい)の成立(せいりつ)に関(かか)わりました。武器(ぶき)と米(こめ)を融通(ゆうずう)し合(あ)う形(かたち)をつくることで、互(たが)いに引(ひ)けなくなる状況(じょうきょう)を用意(ようい)しています。翌年(よくねん)には、政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)へ返(かえ)す構想(こうそう)を含(ふく)む案(あん)(船中八策(ふねちゅうはちさく)として伝(つた)わる)を示(しめ)しました。

1867年(ねん)、京都(きょうと)の近江屋(おうみや)で暗殺(あんさつ)されます。三十一歳(さんじゅういちさい)でした。実際(じっさい)の影響力(えいきょうりょく)の大(おお)きさについては研究者(けんきゅうしゃ)の間(ま)で議論(ぎろん)がありますが、立場(たちば)の違(ちが)う相手(あいて)を結(むす)び直(なお)す動(うご)き方(かた)は、いまも語り継(かたりつ)がれています。

この言葉が映すもの

  • 脱藩(だっぱん)、航海術(こうかいじゅつ)、商社(しょうしゃ)の設立(せつりつ)と、当時(とうじ)の武士(ぶし)の枠(わく)の外(そと)へ出続(でつづ)けました。

  • 和(対立を調停し、場を保つ)対立を調停し、場を保つ

    薩摩(さつま)と長州(ちょうしゅう)のように敵対(てきたい)する相手同士(あいてどうし)を、利害(りがい)の形(かたち)にして結(むす)び直(なお)しています。

関わりのある人

  • 勝海舟の肖像

    勝海舟(かつかいしゅう)

    かつ かいしゅう/1823–1899/幕末・維新

    負(ま)ける側(がわ)の、後始末(のちしまつ)をした人(ひと)

    幕府(ばくふ)の海軍(かいぐん)を育(そだ)てた幕臣(ばくしん)です。自分(じぶん)が仕(つか)える体制(たいせい)の敗北(はいぼく)を早(はや)くから見通(みとお)し、西郷隆盛(さいごうたかもり)との会談(かいだん)で江戸(えど)を戦火(せんか)から救(すく)う道(みち)をまとめました。

  • 西郷隆盛の肖像

    西郷隆盛(さいごうたかもり)

    さいごう たかもり/1828–1877/幕末・維新

    維新(いしん)を進(すす)め、維新(いしん)に反(はん)した人(ひと)

    薩摩藩(さつまはん)を代表(だいひょう)する立場(たちば)で新政府(しんせいふ)をつくった中心人物(ちゅうしんじんぶつ)です。のちに政府(せいふ)と対立(たいりつ)して郷里(きょうり)へ戻(もど)り、西南戦争(せいなんせんあらそ)で敗(やぶ)れて生涯(しょうがい)を終(お)えました。

  • 吉田松陰の肖像

    吉田松陰(よしだしょういん)

    よしだ しょういん/1830–1859/幕末・維新

    二年足(にねんた)らずで、次(つぎ)の世代(せだい)を育(そだ)てた人(ひと)

    長州(ちょうしゅう)の兵学者(へいがくしゃ)です。密航(みっこう)に失敗(しっぱい)して幽閉(ゆうへい)されたのち、松下村塾(しょうかそんじゅく)で教(おし)えた期間(きかん)はごく短(みじか)いものでしたが、そこから明治維新(めいじいしん)を動(うご)かす人(ひと)が多(おお)く出(で)ました。

近い言葉の人

  • 西堀栄三郎(にしぼりえいざぶろう)

    にしぼり えいざぶろう/1903–1989/大正・昭和(文化・学術)

    石橋(いしばし)は叩(たた)いても渡(わた)れないと言(い)った人(ひと)

    真空管(しんくうかん)の国産化(こくさんか)や品質管理(ひんしつかんり)の普及(ふきゅう)に関(かか)わった技術者(ぎじゅつしゃ)です。南極観測隊(なんきょくかんそくたい)の第一次越冬隊長(だいいちじえっとうたいちょう)も務(つと)め、新(あたら)しいことの始(はじ)め方(かた)を書き残(かきのこ)しました。

  • 井深大(いぶかまさる)

    いぶか まさる/1908–1997/近現代の経営者

    愉快(ゆかい)な理想工場(りそうこうじょう)を、設立趣意書(せつりつしゅいしょ)に書(か)いた人(ひと)

    焼け跡(やけあと)の小(ちい)さな工場(こうじょう)からソニーを興(おこ)した技術者(ぎじゅつしゃ)です。技術者(ぎじゅつしゃ)が自由(じゆう)に働(はたら)ける場(ば)を作(つく)ることを、創業(そうぎょう)の目的(もくてき)として文章(ぶんしょう)に残(のこ)しました。

  • 福沢諭吉の肖像

    福沢諭吉(ふくざわゆきち)

    ふくざわ ゆきち/1835–1901/明治

    学(まな)ぶことを、独立(どくりつ)の条件(じょうけん)にした人(ひと)

    西洋(せいよう)の制度(せいど)と考え方(かんがえかた)を紹介(しょうかい)し、慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開(ひら)いた思想家(しそうか)です。身分(みぶん)ではなく学問(がくもん)が人(ひと)の立場(たちば)を決(き)めると説(と)き、その本(ほん)は当時(とうじ)の大(だい)ベストセラーになりました。

同じ時代の人:田中久重、緒方洪庵、佐久間象山、勝海舟

出典

肖像:Unknown authorUnknown author/This image is available from the website of the National Diet Library/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。