
吉田松陰
よしだ しょういん/Shoin Yoshida
1830–1859/幕末・維新
- 思想家
- 教育者
二年足らずで、次の世代を育てた人
長州の兵学者です。密航に失敗して幽閉されたのち、松下村塾で教えた期間はごく短いものでしたが、そこから明治維新を動かす人が多く出ました。
言葉
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
読み・現代語:この身は江戸の野で朽ちても、志だけはここに留めておきたい。
処刑を前に、門下生へ宛てた『留魂録』の冒頭に置かれた歌です。自分の命が終わることを前提に、残すものを名指ししています。何を引き継いでほしいかを最後に書き置いた、教える人の文章です。
ことばの意味
- 大和魂
- :ここでは、吉田松陰が門下生に残したかった志のこと。
出典:吉田松陰『留魂録』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
学は人たる所以を学ぶなり
読み・現代語:学問とは、人が人であるとはどういうことかを学ぶことだ。
若い日に自分への指針として書いた『士規七則』の一節です。試験や出世のためではなく、人としてどうあるかを学ぶのが学問だと定めています。何のために学ぶのかを、最初に決めておくための一文です。
ことばの意味
- 所以
- :理由やわけのこと。「人たる所以」で、人が人である理由という意味です。
出典:吉田松陰『士規七則』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり
読み・現代語:本気を尽くして、それでも人が動かなかったためしはない。
もとは中国の古典『孟子』の言葉で、松陰が繰り返し引き、座右としました。才ではなく本気が人を動かすという考え方です。うまくやる方法を探す前に、まず本気かを問う。教育の場で使われ続けた基準でした。
ことばの意味
- 至誠
- :この上なく本気であること。うそのない心のこと。
出典:『孟子』離婁上(松陰が座右としたもの)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
この人の歩み
1830年、長州藩(いまの山口県)の下級武士の家に生まれました。叔父の玉木文之進から厳しく兵学を教え込まれ、十一歳で藩主の前で講義をしています。若くして各地を遊学し、西洋の力を実際に見たいと考えるようになりました。
1854年、下田に停泊するアメリカの艦に小舟で近づき、密航を試みます。失敗して自首し、萩の野山獄に入れられました。獄中でも読書を続け、囚人に講義をしています。出獄後は自宅の一室で松下村塾を引き受けました。教えた期間は二年に満たず、身分を問わず受け入れ、一人ひとりの関心に合わせて課題を出す形をとりました。ここから高杉晋作、伊藤博文、山県有朋らが出ています。1858年、幕府の政策に反対して老中の暗殺計画を立てたことが知られ、翌1859年、安政の大獄で処刑されました。
二十九歳でした。獄中で書いた『留魂録』は、門下生に宛てた最後の文章です。行動を急ぎすぎたという批判もありますが、教える側としての影響の大きさは、その後の人材の並びが示しています。
この言葉が映すもの
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
言ったことを実行に移し、その結果として投獄と死刑を受け入れています。
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
獄中でも読書と講義を続け、囚人相手にも学びの場をつくりました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
二年に満たない塾の期間に、一人ひとりへ課題を出し続けました。
つながる人
関わりのある人

坂本龍馬
さかもと りょうま/1836–1867/幕末・維新
敵同士を、引き合わせた人
土佐藩を脱藩し、海運と貿易の結社を興した志士です。対立していた薩摩と長州を結ぶ役目を果たし、新しい政治体制の案も示しました。

勝海舟
かつ かいしゅう/1823–1899/幕末・維新
負ける側の、後始末をした人
幕府の海軍を育てた幕臣です。自分が仕える体制の敗北を早くから見通し、西郷隆盛との会談で江戸を戦火から救う道をまとめました。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「吉田松陰」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「松下村塾」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「留魂録」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/山口県文書館/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。


