
佐久間象山
さくま しょうざん/Shozan Sakuma
1811–1864/幕末・維新
- 思想家
- 兵学者
- 技術
道徳は東洋、技術は西洋と言った人
松代藩の兵学者です。西洋の技術を学ぶことと東洋の道徳を保つことは両立すると説き、勝海舟や吉田松陰ら多くの志士を育てました。
言葉
東洋道徳、西洋芸術
読み・現代語:道徳は東洋のものを保ち、技術は西洋のものを取り入れる。
西洋の技術を学ぶことは、自分たちの価値観を捨てることではないと示した言い方です。芸術はここでは技術を指します。何を取り入れ、何を保つかを分けて考える。近代化の設計図になった一句です。
出典:佐久間象山の語として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
以て我が国の恥を雪ぐに足る
読み・現代語:これによって、我が国が受けた屈辱をすすぐことができる。
西洋の兵学や技術を修めることの目的として語った言葉です。追いつくためではなく、対等に立つためだと位置づけました。学ぶ理由を、劣等感ではなく目的の側に置いた説明として読めます。
出典:佐久間象山『省諐録』の趣旨として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1811年、信濃松代藩の下級武士の家に生まれました。江戸で儒学を学び、はじめは朱子学者として名を上げます。1842年、藩主が幕府の海防の担当になったのを機に、西洋の兵学を研究するよう命じられました。ここから方向が変わります。
オランダ語を独学で習得し、西洋の砲術、電信、ガラス製造、種痘まで手を広げました。自ら大砲を鋳造し、電信の実験も行っています。象山の主張は、西洋の技術を取り入れることは、東洋の道徳を捨てることではない、というものでした。この考え方を「東洋道徳、西洋芸術」という言い方で示します。芸術とは、この場合は技術のことです。塾には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らが学びました。1854年、弟子の松陰が密航を企てて捕まると、象山も連座して責任を問われ、蟄居させられます。九年後に赦され、開国論を説いて京へ出ました。
1864年、京都で攘夷派に暗殺されます。開国を主張したためでした。技術と価値観を切り分けて論じる方法は、その後の日本の近代化の枠組みになっています。
この言葉が映すもの
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
朱子学者として名を成した後に、オランダ語と西洋兵学を一から学び直しました。
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
大砲の鋳造や電信の実験など、書物で終わらせず自分で作って試しています。
つながる人
関わりのある人

吉田松陰
よしだ しょういん/1830–1859/幕末・維新
二年足らずで、次の世代を育てた人
長州の兵学者です。密航に失敗して幽閉されたのち、松下村塾で教えた期間はごく短いものでしたが、そこから明治維新を動かす人が多く出ました。

勝海舟
かつ かいしゅう/1823–1899/幕末・維新
負ける側の、後始末をした人
幕府の海軍を育てた幕臣です。自分が仕える体制の敗北を早くから見通し、西郷隆盛との会談で江戸を戦火から救う道をまとめました。

緒方洪庵
おがた こうあん/1810–1863/幕末・維新
医は自分のためではないと書いた人
大坂で適塾を開いた蘭方医です。天然痘の予防に取り組み、医師の心得を訳して残しました。福沢諭吉ら多くの人材が学んでいます。
近い言葉の人

福沢諭吉
ふくざわ ゆきち/1835–1901/明治
学ぶことを、独立の条件にした人
西洋の制度と考え方を紹介し、慶應義塾を開いた思想家です。身分ではなく学問が人の立場を決めると説き、その本は当時の大ベストセラーになりました。

渋沢栄一
しぶさわ えいいち/1840–1931/明治
日本資本主義の父
五百を超える会社の設立に関わった実業家です。もうけと道徳は両立すると説き、同時に六百近い社会事業にも生涯にわたって手を貸し続けました。

広岡浅子
ひろおか あさこ/1849–1919/近現代の経営者
炭鉱に入り、銀行を興した人
両替商に嫁いだのち、自ら炭鉱と銀行の経営に乗り出した実業家です。晩年は女性が学べる場をつくることに力を注ぎました。
出典
- ウィキペディア日本語版「佐久間象山」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「松代藩」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/This image is available from the website of the National Diet Library/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。