
福沢諭吉
ふくざわ ゆきち/Yukichi Fukuzawa
1835–1901/明治
- 思想家
- 教育者
- 著述家
学ぶことを、独立の条件にした人
西洋の制度と考え方を紹介し、慶應義塾を開いた思想家です。身分ではなく学問が人の立場を決めると説き、その本は当時の大ベストセラーになりました。
言葉
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり
読み・現代語:天は、人の上に人を作らず、人の下に人を作らなかったという。
『学問のすゝめ』の冒頭です。「と言えり」と伝聞の形で書かれている点が重要で、この後に、現実には差があるのはなぜかと問いが続きます。平等を宣言するのではなく、考える出発点として置かれた一文です。
出典:福沢諭吉『学問のすゝめ』初編出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
一身独立して一国独立す
読み・現代語:一人ひとりが独立してこそ、国が独立する。
同じ『学問のすゝめ』の言葉です。国の独立を先に唱えるのではなく、まず個人が自分で判断し生計を立てられることだと順序を示しました。大きな主語で語りたくなるときに、順番を思い出させる一文です。
ことばの意味
- 一身独立
- :一人ひとりが自分で判断し、自分で生活を立てること。
出典:福沢諭吉『学問のすゝめ』三編出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり
読み・現代語:力を入れるべきは、日常の暮らしに近い、実際に役立つ学問だ。
難しい漢字を知ることではなく、読み書き算盤や地理、物理など日々使える学問を先にせよという主張です。学問を一部の人のものから外そうとしました。何を学ぶかを選ぶときの、はっきりした基準になります。
ことばの意味
- 実学
- :毎日の暮らしに役立つ学問のこと。読み書き、計算、地理などを指します。
出典:福沢諭吉『学問のすゝめ』初編出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
この人の歩み
1835年、大坂の中津藩蔵屋敷で下級武士の子として生まれました。身分によって将来がほぼ決まる仕組みに、早くから強い反発を持ちます。長崎、次いで大坂の適塾で蘭学を学びました。江戸で開いた蘭学の塾が、後の慶應義塾になります。横浜で英語が主流だと知ると、すぐに学び直しました。
幕府の使節として三度、欧米へ渡ります。持ち帰った見聞をまとめた『西洋事情』は広く読まれました。1872年から刊行した『学問のすゝめ』は、十七編で三百万部を超えたと言われます。人は生まれつき平等だが、実際には差がつく。その差をつくるのは学ぶかどうかだ、というのが主張の骨格でした。役に立つ実学を重んじ、政府に仕えず民間の立場を貫きます。新聞『時事新報』を創刊し、女性の地位や家族のあり方についても論じました。
1901年に亡くなりました。教育と出版を通じて社会を変えようとした姿勢は、後の実業家や教育者に受け継がれています。一方、アジアに関する後年の論説には批判もあります。
この言葉が映すもの
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
蘭学から英語へ、必要と分かればその場で学び直す切り替えの早さがありました。
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
政府に入らず民間で塾と新聞を営み、自分で立つやり方を実際にやって見せました。
つながる人
関わりのある人

渋沢栄一
しぶさわ えいいち/1840–1931/明治
日本資本主義の父
五百を超える会社の設立に関わった実業家です。もうけと道徳は両立すると説き、同時に六百近い社会事業にも生涯にわたって手を貸し続けました。

勝海舟
かつ かいしゅう/1823–1899/幕末・維新
負ける側の、後始末をした人
幕府の海軍を育てた幕臣です。自分が仕える体制の敗北を早くから見通し、西郷隆盛との会談で江戸を戦火から救う道をまとめました。

北里柴三郎
きたさと しばさぶろう/1853–1931/明治
治すより、防ぐを先に置いた医師
破傷風菌の純粋培養と血清療法に成功した細菌学者です。研究の場を自分で作り、日本の伝染病対策と医学教育の土台を築きました。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「福沢諭吉」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「学問のすゝめ」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「慶應義塾」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Fukuzawa Research Center/[1]/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。


