盛田昭夫
もりた あきお/Akio Morita
1921–1999/近現代の経営者
- 実業家
- 電機
自分たちの名前で世界へ売った人
ソニーの共同創業者です。下請けの道を選ばず、自社の名前で海外へ売る形を作り、生活の道具そのものを提案しました。
言葉
消費者は、何が可能かを知らない。我々は知っている
読み・現代語:消費者は、何ができるようになるかをまだ知らない。それを知っているのは我々のほうだ。
調査で需要が見えないまま、持ち歩ける音楽機器を出したときの考え方として伝えられています。傲慢にも聞こえますが、まだ無いものは尋ねても答えが返らない、という実務的な指摘でもあります。
出典:盛田昭夫の語として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
自分の名前で売れないなら、いつまでも下請けだ
読み・現代語:自分たちの名前で売れないのなら、いつまでたっても下請け(したうけ)のままだ。
創業まもない時期に、相手先の名前で作る大量注文を断ったときの判断として語られています。目先の売上より、名前を残せる立場を選びました。何を取って何を捨てるかが、はっきり出ている例です。
出典:創業期の判断として伝えられるもの出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1921年、愛知の造り酒屋の家に生まれました。家業を継ぐ立場でしたが物理に進み、海軍の技術士官として井深大と出会います。1946年、井深とともに東京通信工業を設立しました。井深が技術を、盛田が営業と海外を担当します。
初期の大きな分かれ道は、アメリカの企業から受けた大量注文でした。相手先の名前で作る条件だったため、盛田はこれを断ります。自社の名前で売れなければ、いつまでも下請けだという判断でした。1960年にはアメリカに現地法人を作り、自ら移り住んで販売網を築きます。社名をソニーに改めたのも、世界のどこでも読める名前にするためでした。1979年に発売したヘッドホンステレオは、録音機能を外して持ち歩けるようにした製品です。市場調査では需要が見えず、社内にも反対がありましたが、生活の形のほうが変わると考えて押し切りました。日米の経済摩擦の時期には、双方の言い分を説明する役も務めています。
1999年に亡くなりました。技術を売る仕事を、文化の翻訳として捉えていた人です。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
調査では見えない需要に賭け、持ち歩く音楽という習慣を先に作りました。
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
自ら海外へ移り住み、売り方も交渉のしかたも現地で学び直しています。
つながる人
関わりのある人
井深大
いぶか まさる/1908–1997/近現代の経営者
愉快な理想工場を、設立趣意書に書いた人
焼け跡の小さな工場からソニーを興した技術者です。技術者が自由に働ける場を作ることを、創業の目的として文章に残しました。
本田宗一郎
ほんだ そういちろう/1906–1991/近現代の経営者
失敗の数を隠さなかった技術者
町の修理工から出発し、二輪車で世界最大の生産規模に届く会社を育てた技術者です。自分の過去は失敗の連続だったと繰り返し語りました。
近い言葉の人
糸川英夫
いとかわ ひでお/1912–1999/大正・昭和(文化・学術)
長さ二十三センチから始めた宇宙開発
日本のロケット開発を始めた工学者です。戦闘機の設計から出発し、鉛筆ほどの小さなロケットを水平に発射する実験から宇宙への道を開きました。
湯川秀樹
ゆかわ ひでき/1907–1981/大正・昭和(文化・学術)
日本人初のノーベル賞、その後に平和運動
中間子の存在を予言し、日本人として初めてノーベル賞を受けた物理学者です。受賞後は核兵器をなくす運動に長く関わり続けました。
西堀栄三郎
にしぼり えいざぶろう/1903–1989/大正・昭和(文化・学術)
石橋は叩いても渡れないと言った人
真空管の国産化や品質管理の普及に関わった技術者です。南極観測隊の第一次越冬隊長も務め、新しいことの始め方を書き残しました。
出典
- ウィキペディア日本語版「盛田昭夫」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「ソニー」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「ウォークマン」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。