湯川秀樹
ゆかわ ひでき/Hideki Yukawa
1907–1981/大正・昭和(文化・学術)
- 物理学者
- 平和運動
日本人初のノーベル賞、その後に平和運動
中間子の存在を予言し、日本人として初めてノーベル賞を受けた物理学者です。受賞後は核兵器をなくす運動に長く関わり続けました。
言葉
まがつびよ ふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは
読み・現代語:災いよ、二度とここに来ないでほしい。ここは平和を祈る人だけの場所だ。
原爆で失われた人々を思って詠んだ歌です。物理学の最前線にいた人が、その研究の先で起きたことに向き合いました。学問と、それが世に出たあとの結果を切り離さない姿勢が、この一首に表れています。
ことばの意味
- まがつび
- :災いをもたらすものを指す古い言葉のこと。
出典:湯川秀樹の歌(広島に歌碑があります)出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
一日生きることは、一歩進むことでありたい
読み・現代語:一日を生きるということが、そのまま一歩前へ進むことであってほしい。
色紙などに書いた言葉として広く知られています。成果が出ない年月の長かった人の言い方です。大きく前進しなくてよい、今日の一歩でよい。研究に限らず、続けることを前提にした目標の置き方になっています。
出典:湯川秀樹が揮毫した言葉として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1907年、東京に生まれ、幼くして京都へ移ります。父は地質学者で、家には漢籍が並んでいました。京都帝国大学で物理学を学びますが、卒業後しばらくは成果が出ず、苦しい時期が続きます。当時の問いは、原子核のなかで陽子と中性子を結びつけている力が何か、という点でした。
1934年、湯川はその力を伝える未知の粒子があると考え、質量が電子の約二百倍になると予想します。翌年、中間子論として発表しました。当時は確かめようがありませんでしたが、1947年に宇宙線のなかから予言に合う粒子が見つかります。1949年、日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。敗戦から四年後で、この知らせは大きな励ましとして受け取られています。以後は京都大学で基礎物理学研究所の設立に関わり、後進を育てました。1955年には核兵器の廃絶を訴える宣言に日本から名を連ね、以後、科学者の国際会議に参加し続けます。
1981年に亡くなりました。作った理論と、その使われ方の両方に責任を持とうとした人です。
この言葉が映すもの
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
確かめる手段のない段階から理論を組み立て、十年以上かけて裏づけを得ました。
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
誰も見たことのない粒子を先に予言し、その存在を計算から示しています。
- 利他(公のために働く)公のために働く
受賞後は研究所の設立と核兵器廃絶の運動に、自分の名前と時間を使いました。
つながる人
関わりのある人

北里柴三郎
きたさと しばさぶろう/1853–1931/明治
治すより、防ぐを先に置いた医師
破傷風菌の純粋培養と血清療法に成功した細菌学者です。研究の場を自分で作り、日本の伝染病対策と医学教育の土台を築きました。
牧野富太郎
まきの とみたろう/1862–1957/大正・昭和(文化・学術)
小学校を中退した植物学者
小学校を二年で中退し、独学で植物学を修めた学者です。新種や新変種を千五百以上命名し、精密な植物画もすべて自分で描き続けました。
近い言葉の人

渋沢栄一
しぶさわ えいいち/1840–1931/明治
日本資本主義の父
五百を超える会社の設立に関わった実業家です。もうけと道徳は両立すると説き、同時に六百近い社会事業にも生涯にわたって手を貸し続けました。
安藤百福
あんどう ももふく/1910–2007/近現代の経営者
四十八歳から、即席麺を作った人
事業に失敗して無一文になったあと、自宅の小屋で即席麺を発明した実業家です。食が足りてこそ世は平らかになると説きました。
西堀栄三郎
にしぼり えいざぶろう/1903–1989/大正・昭和(文化・学術)
石橋は叩いても渡れないと言った人
真空管の国産化や品質管理の普及に関わった技術者です。南極観測隊の第一次越冬隊長も務め、新しいことの始め方を書き残しました。
出典
- ウィキペディア日本語版「湯川秀樹」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「中間子」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。