ことのは年代記
豊臣秀吉の肖像

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

とよとみ ひでよし/Hideyoshi Toyotomi

1537–1598/戦国・安土桃山

  • 武将
  • 政治家

身分(みぶん)の壁(かべ)を、自分(じぶん)でこえた人(ひと)

尾張(おわり)の農民(のうみん)の家(いえ)から関白(かんぱく)まで上(あ)がり、天下統一(てんかとういつ)を成し遂(なしと)げた武将(ぶしょう)です。検地(けんち)と刀狩(かたながり)で社会(しゃかい)のしくみを整(ととの)えた一方(いっぽう)、朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)は大(おお)きな犠牲(ぎせい)を生(う)みました。

言葉

露(ろ)と落(お)ち 露(ろ)と消(き)えにし わが身(み)かな 浪速(なにわ)のことも 夢(ゆめ)のまた夢(ゆめ)

読み・現代語:露(ろ)のように生(う)まれ、露(ろ)のように消(き)えていく我が身(わがみ)だ。大坂(おおさか)での栄華(えいが)も、夢(ゆめ)のなかの夢(ゆめ)にすぎない。

秀吉(ひでよし)の辞世(じせい)として伝(つた)わる歌(うた)です。天下(てんか)を取(と)った人(ひと)が、最後(さいご)に自分(じぶん)の一生(いっしょう)を露(あらわ)にたとえました。手(て)に入(い)れたものの大(おお)きさと、それを持(も)っていられる時間(じかん)の短(みじか)さが、同(おな)じ一首(いちしゅ)に並(なら)んでいます。

出典:秀吉(ひでよし)の辞世(じせい)として伝(つた)わる歌(うた)出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります

鳴(な)かぬなら 鳴(な)かせてみせよう 時鳥(ほととぎす)

読み・現代語:鳴(な)かないなら、鳴(な)くように仕向(しむ)けてみせよう。

江戸時代(えどじだい)の随筆(ずいひつ)『甲子夜話(かっしやわ)』が、信長(のぶなが)・秀吉(ひでよし)・家康(いえやす)の性格(せいかく)を句(く)で言(い)い分(わ)けたものです。本人(ほんにん)の言葉(ことば)ではありません。それでも、人(ひと)を動(うご)かして事(こと)を進(すす)める型(かた)として、秀吉(ひでよし)の仕事(しごと)のしかたをよく言い当(いいあ)てています。

ことばの意味

時鳥(ほととぎす)
:初夏に鳴く鳥のこと。日本の詩歌によく登場します。

出典:松浦静山(まつうらしずさん)『甲子夜話(かっしやわ)』(後世(こうせい)に作(つく)られた句(く))出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません

この人の歩み

1537年(ねん)、尾張(おわり)の農民(のうみん)の家(いえ)に生(う)まれたとされます。若(わか)くして織田信長(おだのぶなが)に仕(つか)え、草履取(ぞうりと)りから始(はじ)めたと伝(つた)えられます。城(しろ)の普請(ふしん)や交渉(こうしょう)で成果(せいか)を上(あ)げ、戦(せん)だけでなく段取(だんど)りの巧(たく)みさで頭角(とうかく)を現(あらわ)しました。信長(のぶなが)のもとで中国地方(ちゅうごくちほう)の攻略(こうりゃく)を任(まか)されます。

1582年(ねん)、本能寺(ほんのうじ)の変(へん)を知(し)ると、毛利(もうり)と急(いそ)ぎ和睦(わあつし)して京(きょう)へ引き返(ひきかえ)し、山崎(やまざき)で明智光秀(あきらちみつひで)を破(やぶ)りました。この速(はや)さが後継争(こうけいあらそ)いを決(き)めます。以後(もっご)、四国(しこく)、九州(きゅうしゅう)、小田原(おだわら)と平定(へいてい)を進(すす)め、1590年(ねん)に天下統一(てんかとういつ)を完成(かんせい)させました。全国(ぜんこく)の田畑(たはた)を同(おな)じ基準(きじゅん)で測(はか)る太閤検地(たいこうけんち)、農民(のうみん)から武器(ぶき)を集(あつ)める刀狩(かたながり)を行(おこな)い、武士(ぶし)と農民(のうみん)の区分(くぶん)をはっきりさせています。大坂城(おおさかしろ)を築(きず)き、千利休(せんのりきゅう)を茶頭(さどう)として茶会(ちゃかい)を政治(せいじ)に用(もち)いました。一方(いっぽう)、1592年(ねん)からの朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)は多(おお)くの犠牲(ぎせい)を出(だ)し、豊臣政権(とよとみせいけん)を弱(よわ)らせる原因(げんいん)になったと評(ひょう)されます。

1598年(ねん)に亡(な)くなりました。統一(とういつ)の枠組(わくぐ)みは徳川家康(とくがわいえやす)に引き継(ひきつ)がれます。身分(みぶん)の低(ひく)い出自(しゅつじ)から頂点(ちょうてん)に立(た)った経歴(けいれき)は、後(ご)の時代(じだい)に繰り返(くりかえ)し語(かた)られました。

この言葉が映すもの

  • 農民(のうみん)の子(こ)から関白(かんぱく)まで、前例(ぜんれい)のない道(みち)をたどって身分(みぶん)の枠(わく)を越(こ)えました。

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    戦(せん)だけでなく普請(ふしん)や交渉(こうしょう)を引(ひ)き受(う)け続(つづ)け、地味(じみ)な仕事(しごと)の積み上(つみあ)げで信頼(しんらい)を得(え)ています。

関わりのある人

  • 織田信長の肖像

    織田信長(おだのぶなが)

    おだ のぶなが/1534–1582/戦国・安土桃山

    古(ふる)い仕組(しく)みを、壊(こわ)してつくり直(なお)した人(ひと)

    尾張(おわり)の一大名(いちだいみょう)から天下統一(てんかとういつ)の一歩手前(いちほてまえ)まで進(すす)んだ武将(ぶしょう)です。市(し)や関所(せきしょ)のきまりを作り替(つくりか)え、鉄砲(てっぽう)の運用(うんよう)や築城(ちくじょう)でも、前例(ぜんれい)のない手(て)を先(さき)に試(ため)しました。

  • 徳川家康の肖像

    徳川家康(とくがわいえやす)

    とくがわ いえやす/1543–1616/戦国・安土桃山

    待(ま)つことで、二百六十年(にひゃくろくじゅうねん)を用意(ようい)した人(ひと)

    人質(ひとじち)として少年期(しょうねんき)を過(す)ごし、二度(にど)の主君(しゅくん)の死(し)を経(へ)て天下(てんか)を取(と)った武将(ぶしょう)です。江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)き、その後二百六十年余(ごにひゃくろくじゅうねんあま)り続(つづ)く体制(たいせい)の骨組(ほねぐ)みをつくりました。

  • 千利休の肖像

    千利休(せんのりきゅう)

    せん の りきゅう/1522–1591/戦国・安土桃山

    引(ひ)くことで、豊(ゆた)かさを見(み)せた人(ひと)

    堺(さかい)の商家(しょうか)に生(う)まれ、狭(せま)い茶室(ちゃしつ)と簡素(かんそ)な道具(どうぐ)で、もてなしの形(かたち)そのものを作り替(つくりか)えた茶人(ちゃじん)です。足(た)すのではなく引(ひ)くことで豊(ゆた)かさを見(み)せる方法(ほうほう)を示(しめ)しました。

近い言葉の人

  • 伊達政宗の肖像

    伊達政宗(だてまさむね)

    だて まさむね/1567–1636/戦国・安土桃山

    生(う)まれるのが遅(おそ)かった、と言(い)われた大名(だいみょう)

    東北(とうほく)に大(おお)きな勢力(せいりょく)を築(きず)いた大名(だいみょう)です。天下統一(てんかとういつ)に間に合(まにあ)わない時期(じき)に生(う)まれ、その後(ご)は仙台(せんだい)の町(まち)づくりと海外(かいがい)への使節派遣(しせつはけん)に力(ちから)を注(そそ)ぎました。

  • 杉田玄白の肖像

    杉田玄白(すぎたげんぱく)

    すぎた げんぱく/1733–1817/江戸

    辞書(じしょ)なしで、西洋(せいよう)の本(ほん)を訳(やく)した人(ひと)

    オランダ語(ご)の解剖書(かいぼうしょ)を仲間(なかま)と翻訳(ほんやく)し『解体新書(かいたいしんしょ)』として刊行(かんこう)した医師(いし)です。手(て)がかりのない状態(じょうたい)からの翻訳作業(ほんやくさぎょう)を後(のち)に記録(きろく)に残(のこ)しました。

  • 伊能忠敬の肖像

    伊能忠敬(いのうただたか)

    いのう ただたか/1745–1818/江戸

    五十歳(ごじゅうさい)から、日本(にっぽん)を歩(ある)いて測(はか)った人(ひと)

    商家(しょうか)を隠居(いんきょ)したあと天文学(てんもんがく)を学(まな)び直(なお)し、五十五歳(ごじゅうごさい)から十七年(じゅうななねん)かけて全国(ぜんこく)を測量(そくりょう)した人物(じんぶつ)です。歩測(ほそく)と天体観測(てんたいかんそく)で日本全図(にっぽんぜんず)をつくりました。

同じ時代の人:武田信玄、千利休、上杉謙信、織田信長

出典

肖像:Kanō Mitsunobu (狩野 光信, 1565–1608)/Osaka City Museum of Fine Arts (大阪市立美術館) - https://ocmfa.official.ec/blog/2021/04/08/175618/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。