
徳川家康
とくがわ いえやす/Ieyasu Tokugawa
1543–1616/戦国・安土桃山
- 武将
- 政治家
待つことで、二百六十年を用意した人
人質として少年期を過ごし、二度の主君の死を経て天下を取った武将です。江戸幕府を開き、その後二百六十年余り続く体制の骨組みをつくりました。
言葉
人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず
読み・現代語:人の一生は、重い荷物を背負って遠い道を歩くようなものだ。急いではいけない。
東照宮御遺訓として伝わる言葉の書き出しですが、後世にまとめられたものとされます。長い道のりを前提にすれば、急がないことが合理的になる。待つ時間の長かったこの人の像とよく重なります。
出典:「東照宮御遺訓」(後世の編とされます)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば、害その身に至る
読み・現代語:勝つことだけを知って負けを知らないと、いつか自分に害が及ぶ。
同じ御遺訓のなかの一節です。負け方を知らない人は、一度の失敗で崩れるという指摘になっています。若いころに何度も退いた経験のある人物に、後の世が重ねて語り継いだ言葉と読めます。
出典:「東照宮御遺訓」(後世の編とされます)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1543年、三河(いまの愛知県東部)の小さな大名の家に生まれました。幼いころは織田氏、次いで今川氏のもとで人質として過ごします。自分の意思で動けない時間が長く、その経験が慎重な性格をつくったと言われます。桶狭間の戦いののち独立し、織田信長と同盟を結びました。
信長の死後は豊臣秀吉と争い、やがてその下に入って関東へ移されます。江戸という湿地の多い土地で、水路を整え城下町をつくりました。1600年の関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開きます。二年で将軍職を子の秀忠に譲り、徳川の世襲を早く形にしました。武家諸法度や参勤交代の下地となる制度を整え、大名の力を抑える仕組みを残しています。1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼしました。
1616年に亡くなりました。以後、大きな内戦のない時代が二百六十年余り続きます。目立つ勝ち方をしない人でしたが、続く形をつくった点で評価されています。
この言葉が映すもの
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
人質の時期から関ヶ原まで、退きながら機会を待ち続けた七十年でした。
- 和(対立を調停し、場を保つ)対立を調停し、場を保つ
勝った後に相手を全滅させず、大名を配置し直して争いの起きにくい形を組みました。
つながる人
関わりのある人

織田信長
おだ のぶなが/1534–1582/戦国・安土桃山
古い仕組みを、壊してつくり直した人
尾張の一大名から天下統一の一歩手前まで進んだ武将です。市や関所のきまりを作り替え、鉄砲の運用や築城でも、前例のない手を先に試しました。

豊臣秀吉
とよとみ ひでよし/1537–1598/戦国・安土桃山
身分の壁を、自分でこえた人
尾張の農民の家から関白まで上がり、天下統一を成し遂げた武将です。検地と刀狩で社会のしくみを整えた一方、朝鮮出兵は大きな犠牲を生みました。

武田信玄
たけだ しんげん/1521–1573/戦国・安土桃山
国を、人と堤でつくった人
甲斐を治めた戦国大名です。戦の強さで知られる一方、治水や法度、金山の経営など、領地の中を整える仕事に力を注ぎました。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「徳川家康」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「江戸幕府」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「関ヶ原の戦い」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Kanō Tan'yū/Osaka Castle main tower/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。

