
伊達政宗
だて まさむね/Masamune Date
1567–1636/戦国・安土桃山
- 武将
- 大名
生まれるのが遅かった、と言われた大名
東北に大きな勢力を築いた大名です。天下統一に間に合わない時期に生まれ、その後は仙台の町づくりと海外への使節派遣に力を注ぎました。
言葉
馬上少年過ぐ 世は平かにして白髪多し 残軀は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん
読み・現代語:馬に乗って戦っていた若い日は過ぎた。世は平和になり、白髪が増えた。残った体は天が許してくれたもの。楽しまずにどうしよう。
晩年に自ら詠んだ漢詩です。戦う場が終わったことを認めたうえで、残りの時間の使い道を自分で決めています。過去を惜しむのではなく、次の楽しみ方に切り替えた宣言として読めます。
ことばの意味
- 残軀
- :生き残った体のこと。
出典:伊達政宗の漢詩「酔余口号」出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
仁に過ぐれば弱くなる、義に過ぐれば固くなる
読み・現代語:思いやりが過ぎれば弱くなり、正しさにこだわり過ぎれば融通がきかなくなる。
政宗の教えとして伝わる「五常訓」の一節です。徳とされるものにも、行き過ぎがあると言っています。良いとされることを最大化しない。組織を預かる側の、実務的なさじ加減の話です。
出典:伊達政宗の「五常訓」として伝えられるもの出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1567年、出羽国米沢に生まれました。幼くして疱瘡で右目を失っています。十八歳で家督を継ぐと、周囲の勢力を次々に破り、二十代前半で東北南部を支配しました。しかし、そのころには豊臣秀吉の統一が目前に迫っています。1590年の小田原参陣では、遅参を咎められ、白装束で秀吉の前に出たと伝えられます。
関ヶ原の戦い以降は徳川方につき、仙台に城と城下町を築きました。北上川の流路を変えて水田を広げ、米の増産と江戸への輸送に取り組みます。1613年には、家臣の支倉常長を団長とする使節をヨーロッパへ送りました。太平洋を渡り、メキシコを経てスペイン、ローマまで行った七年の旅です。目的は貿易の交渉でしたが、日本国内で禁教が強まったため成果には結びつきませんでした。晩年は江戸で幕府に仕え、能や茶、料理にも通じた文化人として知られます。
1636年に亡くなりました。天下を狙う時期に生まれ合わせなかった人物として、後世に語られ続けています。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
国内の情勢が閉じていく時期に、太平洋を越える使節を自分の判断で送りました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
天下を取れない立場を受け入れたうえで、仙台の町と水田づくりに向かい直しています。
つながる人
関わりのある人

徳川家康
とくがわ いえやす/1543–1616/戦国・安土桃山
待つことで、二百六十年を用意した人
人質として少年期を過ごし、二度の主君の死を経て天下を取った武将です。江戸幕府を開き、その後二百六十年余り続く体制の骨組みをつくりました。

豊臣秀吉
とよとみ ひでよし/1537–1598/戦国・安土桃山
身分の壁を、自分でこえた人
尾張の農民の家から関白まで上がり、天下統一を成し遂げた武将です。検地と刀狩で社会のしくみを整えた一方、朝鮮出兵は大きな犠牲を生みました。
近い言葉の人

織田信長
おだ のぶなが/1534–1582/戦国・安土桃山
古い仕組みを、壊してつくり直した人
尾張の一大名から天下統一の一歩手前まで進んだ武将です。市や関所のきまりを作り替え、鉄砲の運用や築城でも、前例のない手を先に試しました。

杉田玄白
すぎた げんぱく/1733–1817/江戸
辞書なしで、西洋の本を訳した人
オランダ語の解剖書を仲間と翻訳し『解体新書』として刊行した医師です。手がかりのない状態からの翻訳作業を後に記録に残しました。

伊能忠敬
いのう ただたか/1745–1818/江戸
五十歳から、日本を歩いて測った人
商家を隠居したあと天文学を学び直し、五十五歳から十七年かけて全国を測量した人物です。歩測と天体観測で日本全図をつくりました。
出典
- ウィキペディア日本語版「伊達政宗」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキクォート日本語版「伊達政宗」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「慶長遣欧使節」(CC BY-SA 4.0)
肖像:丸山可澄/花押藪 7巻 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563337/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。