ことのは年代記
伊能忠敬の肖像

伊能忠敬(いのうただたか)

いのう ただたか/Tadataka Ino

1745–1818/江戸

  • 測量家
  • 商人
  • 天文学者

五十歳(ごじゅうさい)から、日本(にっぽん)を歩(ある)いて測(はか)った人(ひと)

商家(しょうか)を隠居(いんきょ)したあと天文学(てんもんがく)を学(まな)び直(なお)し、五十五歳(ごじゅうごさい)から十七年(じゅうななねん)かけて全国(ぜんこく)を測量(そくりょう)した人物(じんぶつ)です。歩測(ほそく)と天体観測(てんたいかんそく)で日本全図(にっぽんぜんず)をつくりました。

言葉

私(わたし)がここまでくることができたのは高橋至時先生(たかはしよしときせんせい)のおかげであるから、死(し)んだあとは先生(せんせい)のそばで眠(ねむ)りたい

読み・現代語:ここまで来(こ)られたのは高橋至時(たかはしよしとき)(たかはしよしとき)先生(せんせい)のおかげだから、死(し)んだあとは先生(せんせい)のそばで眠(ねむ)りたい。

晩年(ばんねん)に遺(のこ)したと伝(つた)えられる言葉(ことば)です。至時(よしとき)は十九歳年下(じゅうきゅうさいとしした)で、先(さき)に亡(な)くなっていました。年齢(ねんれい)や立場(たちば)ではなく、教(おし)えてくれた人(ひと)を師(し)と呼(よ)ぶ。五十歳(ごじゅうさい)で学(まな)び直(なお)した人(ひと)の、学(まな)びへの向き合(むきあ)い方(かた)がそのまま出(で)ています。

出典:忠敬(ちゅうけい)の遺言(ゆいごん)として伝(つた)えられるもの(墓所(はかしょ)は師(し)の隣(となり)にあります)出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります

この人の歩み

1745年(ねん)、上総国(かずさくに)(いまの千葉県(ちばけん))に生(う)まれました。十七歳(じゅうななさい)で佐原(さわら)の造り酒屋(つくりざかや)・伊能家(いのうか)に婿入(むこい)りし、傾(かたむ)いていた家業(かぎょう)を立て直(たてなお)します。名主(なぬし)として飢饉(ききん)の際(さい)の救済(きゅうさい)にもあたりました。五十歳(ごじゅうさい)で家督(かとく)を長男(ちょうなん)に譲(ゆず)り、江戸(えど)へ出(で)ます。目的(もくてき)は、以前(もっまえ)から関心(かんしん)のあった天文(てんもん)と暦(こよみ)の学問(がくもん)でした。

入門(にゅうもん)したのは、十九歳年下(じゅうきゅうさいとしした)の幕府天文方(ばくふてんもんかた)・高橋至時(たかはしよしとき)です。年齢(ねんれい)を理由(りゆう)にせず一(いち)から学(まな)び直(なお)しました。当時(とうじ)の課題(かだい)の一(ひと)つが、地球(ちきゅう)の大(おお)きさを正確(せいかく)に知(し)ることでした。そのためには長(なが)い距離(きょり)を実測(じっそく)する必要(ひつよう)があります。1800年(ねん)、五十五歳(ごじゅうごさい)で蝦夷地(えぞち)の測量(そくりょう)に出発(しゅっぱつ)しました。以後十七年間(もっこうじゅうななねんかん)、全国(ぜんこく)を歩(ある)いて測(はか)ります。方法(ほうほう)は、歩幅(ほはば)を一定(いってい)にして距離(きょり)を数(かぞ)え、要所(ようしょ)で星(ほし)を観測(かんそく)して緯度(いど)を確(たし)かめるというものでした。移動距離(いどうきょり)は約四万(やくよんまん)キロメートルに達(たっ)したと言(い)われます。

1818年(ねん)、全図(ぜんず)の完成(かんせい)を見(み)ずに亡(な)くなりました。弟子(でし)たちが作業(さぎょう)を続(つづ)け、1821年(ねん)に「大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)」が完成(かんせい)します。その精度(せいど)は高(たか)く、後(ご)の地図(ちず)の基礎(きそ)になりました。

この言葉が映すもの

  • 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ

    五十歳(ごじゅうさい)で隠居(いんきょ)し、十九歳年下(じゅうきゅうさいとしした)の学者(がくしゃ)に弟子入(でしい)りして一(いち)から学(まな)び直(なお)しました。

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    五十五歳(ごじゅうごさい)から十七年間(じゅうななねんかん)、歩(ある)いて測(はか)るという単純(たんじゅん)な作業(さぎょう)を続(つづ)けています。

  • 地球(ちきゅう)の大(おお)きさを知(し)るために全国(ぜんこく)を実測(じっそく)するという、前例(ぜんれい)のない計画(けいかく)を立(た)てました。

関わりのある人

  • 二宮尊徳の肖像

    二宮尊徳(にのみやそんとく)

    にのみや そんとく/1787–1856/江戸

    小(ちい)さな積み上(つみあ)げで、村(むら)を建て直(たてなお)した人(ひと)

    水害(すいがい)で没落(ぼつらく)した家(いえ)を自力(じりき)で再興(さいこう)し、その方法(ほうほう)を各地(かくち)の農村再建(のうそんさいけん)に応用(おうよう)した農政家(のうせいか)です。数字(すうじ)にもとづく計画(けいかく)と、勤労(きんろう)・分度(ぶんど)・推譲(すいじょう)の教(おし)えを残(のこ)しました。

近い言葉の人

同じ時代の人:宮本武蔵、貝原益軒、松尾芭蕉、近松門左衛門

出典

肖像:Aoki Katsujirō/https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/document/id1.html/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。