ことのは年代記
織田信長の肖像

織田信長(おだのぶなが)

おだ のぶなが/Nobunaga Oda

1534–1582/戦国・安土桃山

  • 武将
  • 戦国大名

古(ふる)い仕組(しく)みを、壊(こわ)してつくり直(なお)した人(ひと)

尾張(おわり)の一大名(いちだいみょう)から天下統一(てんかとういつ)の一歩手前(いちほてまえ)まで進(すす)んだ武将(ぶしょう)です。市(し)や関所(せきしょ)のきまりを作り替(つくりか)え、鉄砲(てっぽう)の運用(うんよう)や築城(ちくじょう)でも、前例(ぜんれい)のない手(て)を先(さき)に試(ため)しました。

言葉

是非(ぜひ)に及(およ)ばず

読み・現代語:よい悪(わる)いを論(ろん)じている場合(ばあい)ではない。

本能寺(ほんのうじ)で襲撃(しゅうげき)を受(う)け、相手(あいて)が明智光秀(あきらちみつひで)だと知(し)った場面(ばめん)の言葉(ことば)として『信長公記(しんちょうこうき)』に記(しる)されています。理由(りゆう)を問(と)うより、いまやることを決(き)める、という意味(いみ)に読(よ)めます。判断(はんだん)の時間(じかん)が尽(つ)きたときの、最後(さいご)の一言(ひとこと)です。

ことばの意味

是非に及ばず(ぜひにおよばず)
:よい悪いを議論している場合ではない、という意味。

出典:太田牛一(おおたごいち)『信長公記(しんちょうこうき)』出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります

人間五十年(にんげんごじゅうねん)、下天(げてん)のうちを較(くら)ぶれば、夢幻(むげん)の如(ごと)くなり

読み・現代語:人(ひと)の一生(いっしょう)は五十年(ごじゅうねん)ほど。天上(てんじょう)の時間(じかん)に比(くら)べれば、夢(ゆめ)のように短(みじか)い。

信長(のぶなが)が好(この)んで舞(ま)ったと伝(つた)わる幸若舞(こうわかまい)『敦盛(あつもり)』の一節(いっせつ)で、信長自身(のぶながじしん)が作(つく)った言葉(ことば)ではありません。短(みじか)いと知(し)ったうえで何(なに)をするかを問(と)う調子(ちょうし)があります。持ち時間(もちじかん)を数(かぞ)える視点(してん)は、いまも変(か)わらず役に立(やくにた)ちます。

ことばの意味

下天(げてん)
:天上の世界のこと。人の一生の短さを比べるために使われました。
夢幻(むげん)
:夢やまぼろしのように、たしかでないもののこと。

出典:幸若舞(さいわいわかまい)『敦盛(あつもり)』(信長(のぶなが)が好(この)んだと『信長公記(しんちょうこうき)』に記(しる)される)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません

この人の歩み

1534年(ねん)、尾張(おわり)(いまの愛知県西部(あいちけんせいぶ))の武将(ぶしょう)・織田信秀(おだのぶひで)の子(こ)として生(う)まれました。若(わか)いころは型破(かたやぶ)りな振る舞(ふるま)いから「うつけ」と呼(よ)ばれたと伝(つた)えられます。転機(てんき)は1560年(ねん)の桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)いです。大軍(たいぐん)を率(ひき)いる今川義元(いまがわよしもと)を少数(しょうすう)で破(やぶ)り、名(な)が一気(いっき)に知(し)られました。

1568年(ねん)、足利義昭(あしかがよしあき)を奉(ほう)じて京(きょう)へ入(はい)り、1573年(ねん)には室町幕府(むろまちばくふ)を終(お)わらせます。城下(じょうか)では市(し)の税(ぜい)や座(ざ)の特権(とっけん)を取り払(とりはら)う楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を進(すす)め、関所(せきしょ)をなくして人(ひと)と物(もの)が動(うご)きやすい形(かたち)に変(か)えました。1575年(ねん)の長篠(ながしの)の戦(たたか)いでは鉄砲(てっぽう)を組み込(くみこ)んだ戦(たたか)い方(かた)を用(もち)い、1576年(ねん)には琵琶湖(びわこ)のほとりに安土城(あづちじょう)を築(きず)いています。宣教師(せんきょうし)を迎(むか)えて西洋(せいよう)の知識(ちしき)に触(ふ)れる一方(いっぽう)、比叡山(ひえいざん)の焼き討(やきう)ちなど、逆(さか)らう勢力(せいりょく)への攻撃(こうげき)は苛烈(かれつ)でした。

1582年(ねん)、家臣(かしん)の明智光秀(あきらちみつひで)に本能寺(ほんのうじ)で襲(おそ)われ、四十九年(よんじゅうきゅうねん)の生涯(しょうがい)を終(お)えます。統一(とういつ)の事業(じぎょう)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)へ引き継(ひきつ)がれました。既存(きそん)のきまりを壊(こわ)す速(はや)さは、いまも評価(ひょうか)と批判(ひはん)の両方(りょうほう)で語(かた)られます。

この言葉が映すもの

  • 楽市(らくいち)・楽座(らくざ)や鉄砲(てっぽう)の運用(うんよう)など、前例(ぜんれい)のないやり方(かた)を先(さき)に試(ため)して結果(けっか)で判断(はんだん)しました。

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    桶狭間(おけはざま)から本能寺(ほんのうじ)まで、二十年以上(にじゅうねんもっうえ)にわたって同(おな)じ方向(ほうこう)へ勢力(せいりょく)を広(ひろ)げ続(つづ)けています。

関わりのある人

  • 豊臣秀吉の肖像

    豊臣秀吉(とよとみひでよし)

    とよとみ ひでよし/1537–1598/戦国・安土桃山

    身分(みぶん)の壁(かべ)を、自分(じぶん)でこえた人(ひと)

    尾張(おわり)の農民(のうみん)の家(いえ)から関白(かんぱく)まで上(あ)がり、天下統一(てんかとういつ)を成し遂(なしと)げた武将(ぶしょう)です。検地(けんち)と刀狩(かたながり)で社会(しゃかい)のしくみを整(ととの)えた一方(いっぽう)、朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)は大(おお)きな犠牲(ぎせい)を生(う)みました。

  • 徳川家康の肖像

    徳川家康(とくがわいえやす)

    とくがわ いえやす/1543–1616/戦国・安土桃山

    待(ま)つことで、二百六十年(にひゃくろくじゅうねん)を用意(ようい)した人(ひと)

    人質(ひとじち)として少年期(しょうねんき)を過(す)ごし、二度(にど)の主君(しゅくん)の死(し)を経(へ)て天下(てんか)を取(と)った武将(ぶしょう)です。江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)き、その後二百六十年余(ごにひゃくろくじゅうねんあま)り続(つづ)く体制(たいせい)の骨組(ほねぐ)みをつくりました。

  • 千利休の肖像

    千利休(せんのりきゅう)

    せん の りきゅう/1522–1591/戦国・安土桃山

    引(ひ)くことで、豊(ゆた)かさを見(み)せた人(ひと)

    堺(さかい)の商家(しょうか)に生(う)まれ、狭(せま)い茶室(ちゃしつ)と簡素(かんそ)な道具(どうぐ)で、もてなしの形(かたち)そのものを作り替(つくりか)えた茶人(ちゃじん)です。足(た)すのではなく引(ひ)くことで豊(ゆた)かさを見(み)せる方法(ほうほう)を示(しめ)しました。

近い言葉の人

  • 伊達政宗の肖像

    伊達政宗(だてまさむね)

    だて まさむね/1567–1636/戦国・安土桃山

    生(う)まれるのが遅(おそ)かった、と言(い)われた大名(だいみょう)

    東北(とうほく)に大(おお)きな勢力(せいりょく)を築(きず)いた大名(だいみょう)です。天下統一(てんかとういつ)に間に合(まにあ)わない時期(じき)に生(う)まれ、その後(ご)は仙台(せんだい)の町(まち)づくりと海外(かいがい)への使節派遣(しせつはけん)に力(ちから)を注(そそ)ぎました。

  • 杉田玄白の肖像

    杉田玄白(すぎたげんぱく)

    すぎた げんぱく/1733–1817/江戸

    辞書(じしょ)なしで、西洋(せいよう)の本(ほん)を訳(やく)した人(ひと)

    オランダ語(ご)の解剖書(かいぼうしょ)を仲間(なかま)と翻訳(ほんやく)し『解体新書(かいたいしんしょ)』として刊行(かんこう)した医師(いし)です。手(て)がかりのない状態(じょうたい)からの翻訳作業(ほんやくさぎょう)を後(のち)に記録(きろく)に残(のこ)しました。

  • 伊能忠敬の肖像

    伊能忠敬(いのうただたか)

    いのう ただたか/1745–1818/江戸

    五十歳(ごじゅうさい)から、日本(にっぽん)を歩(ある)いて測(はか)った人(ひと)

    商家(しょうか)を隠居(いんきょ)したあと天文学(てんもんがく)を学(まな)び直(なお)し、五十五歳(ごじゅうごさい)から十七年(じゅうななねん)かけて全国(ぜんこく)を測量(そくりょう)した人物(じんぶつ)です。歩測(ほそく)と天体観測(てんたいかんそく)で日本全図(にっぽんぜんず)をつくりました。

同じ時代の人:武田信玄、千利休、上杉謙信、豊臣秀吉

出典

肖像:狩野宗秀 (Kanō Sōshū, 1551 - 1601)/en:Image:Odanobunaga.jpg/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。