ことのは年代記
上杉謙信の肖像

上杉謙信(うえすぎけんしん)

うえすぎ けんしん/Kenshin Uesugi

1530–1578/戦国・安土桃山

  • 武将
  • 戦国大名

領土(りょうど)より、筋(すじ)を選(えら)んだ武将(ぶしょう)

越後(えちご)を治(おさ)めた戦国大名(せんごくだいみょう)です。頼(たの)まれて出兵(しゅっぺい)することが多(おお)く、勝(か)っても土地(とち)をあまり取(と)らなかったため、義(ぎ)の武将(ぶしょう)と呼(よ)ばれてきました。

言葉

四十九年(よんじゅうきゅうねん) 一睡(いっすい)の夢(ゆめ) 一期(いちご)の栄華(えいが) 一盃(いっぱい)の酒(さけ)

読み・現代語:四十九年(よんじゅうきゅうねん)の生涯(しょうがい)はひと眠(ねむ)りの夢(ゆめ)、一生(いっしょう)の栄華(えいが)は一杯(いちはい)の酒(さけ)のようなものだった。

謙信(けんしん)の辞世(じせい)として伝(つた)わる漢詩(かんし)です。戦(たたか)い続(つづ)けた生涯(しょうがい)を、夢(ゆめ)と酒(さけ)にたとえて締(し)めくくっています。手(て)にしたものを誇(ほこ)らずに終(お)える言い方(いいかた)は、土地(とち)を取(と)ることに執着(しゅうちゃく)しなかったと語(かた)られる人物像(じんぶつぞう)と重(かさ)なります。

ことばの意味

一期(いちご)
:生まれてから死ぬまでの一生のこと。

出典:謙信(けんしん)の辞世(じせい)として伝(つた)わる漢詩(かんし)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません

運(うん)は天(てん)にあり、鎧(よろい)は胸(むね)にあり、手柄(てがら)は足(あし)にあり

読み・現代語:運(うん)は天(てん)が決(き)める。身(み)を守(まも)るのは胸(むね)の鎧(よろい)、手柄(てがら)をつかむのは自分(じぶん)の足(あし)だ。

謙信(けんしん)の言葉(ことば)として伝(つた)えられてきたものです。運(うん)と、備(そな)えと、自分(じぶん)で動(うご)く部分(ぶぶん)を分(わ)けて考(かんが)えています。どうにもならないことに悩(なや)む時間(じかん)を減(へ)らし、動(うご)かせるところに力(ちから)を使(つか)う。整理(せいり)のしかたとして役に立(やくにた)ちます。

出典:謙信(けんしん)の語(かたり)として伝(つた)わるもの出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません

この人の歩み

1530年(ねん)、越後(えちご)(いまの新潟県(にいがたけん))の守護代(しゅごだい)・長尾為景(ながおためかげ)の子(こ)として生(う)まれました。兄(あに)に代(か)わって家(いえ)を継(つ)ぎ、内乱(ないらん)の続(つづ)く越後(えちご)をまとめます。若(わか)いころから毘沙門天(びしゃもんてん)を信仰(しんこう)し、自(みずか)らを毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ変(うまれか)わりと考(かんが)えていたと伝(つた)えられます。

出兵(しゅっぺい)の多(おお)くは、他家(たけ)からの救援要請(きゅうえんようせい)に応(おう)じたものでした。信濃(しなの)を追(お)われた村上義清(むらかみよしきよ)らの求(もと)めで武田信玄(たけだしんげん)と川中島(かわなかじま)に五度対(ごどたい)し、関東管領(かんとうかんりょう)を受(う)け継(つ)いでからは北条氏(ほうじょうし)と争(あらそ)っています。生涯(しょうがい)の合戦数(かっせんすう)は多(おお)いものの、奪(うば)った土地(とち)を自分(じぶん)のものにする動(うご)きは目立(めだ)ちません。武田領(たけだりょう)が塩(しお)の流通(りゅうつう)を止(と)められたとき、越後(えちご)から塩(しお)を送(おく)ったという逸話(いつわ)も伝(つた)えられます。事実(じじつ)かどうかには議論(ぎろん)がありますが、その人物像(じんぶつぞう)として語り継(かたりつ)がれてきました。領内(りょうない)では青苧(あおからむし)という繊維(せんい)の交易(こうえき)を保護(ほご)し、財政(ざいせい)を支(ささ)えています。

1578年(ねん)、出兵(しゅっぺい)の準備中(じゅんびちゅう)に急死(いそし)しました。跡目争(あとめあらそ)いで上杉家(かみすぎか)は勢(いきお)いを失(うしな)います。戦国(せんごく)の武将(ぶしょう)としては珍(めずら)しく、利(り)より筋(すじ)を優先(ゆうせん)した人物(じんぶつ)として評(ひょう)されることが多(おお)い一方(いっぽう)、実際(じっさい)の判断(はんだん)は現実的(げんじつてき)だったとする研究(けんきゅう)もあります。

この言葉が映すもの

  • 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる

    求(もと)められた筋(すじ)のために出兵(しゅっぺい)し、勝(か)っても領土(りょうど)をほとんど取(と)りませんでした。

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    川中島(かわなかじま)で五度(ごど)、関東(かんとう)でも繰り返(くりかえ)し出陣(しゅつじん)し、長(なが)い年月(としつき)を戦(たたか)い続(つづ)けています。

関わりのある人

  • 武田信玄の肖像

    武田信玄(たけだしんげん)

    たけだ しんげん/1521–1573/戦国・安土桃山

    国(くに)を、人(ひと)と堤(つつみ)でつくった人(ひと)

    甲斐(かい)を治(おさ)めた戦国大名(せんごくだいみょう)です。戦(せん)の強(つよ)さで知(し)られる一方(いっぽう)、治水(ちすい)や法度(はっと)、金山(かなやま)の経営(けいえい)など、領地(りょうち)の中(なか)を整(ととの)える仕事(しごと)に力(ちから)を注(そそ)ぎました。

近い言葉の人

  • 吉田松陰の肖像

    吉田松陰(よしだしょういん)

    よしだ しょういん/1830–1859/幕末・維新

    二年足(にねんた)らずで、次(つぎ)の世代(せだい)を育(そだ)てた人(ひと)

    長州(ちょうしゅう)の兵学者(へいがくしゃ)です。密航(みっこう)に失敗(しっぱい)して幽閉(ゆうへい)されたのち、松下村塾(しょうかそんじゅく)で教(おし)えた期間(きかん)はごく短(みじか)いものでしたが、そこから明治維新(めいじいしん)を動(うご)かす人(ひと)が多(おお)く出(で)ました。

  • 日蓮の肖像

    日蓮(にちれん)

    にちれん/1222–1282/鎌倉・室町

    国(くに)に向(む)かって諫言(げん)した僧(そう)

    日蓮宗(にちれんむね)の開祖(かいそ)です。続(つづ)く災害(さいがい)と飢饉(ききん)の原因(げんいん)を国(くに)の姿勢(しせい)に求(もと)めて幕府(ばくふ)に諫言(げん)し、庵(あん)を焼(や)かれ、二度(にど)の流罪(るざい)と処刑寸前(しょけいすんぜん)の場面(ばめん)を経験(けいけん)しました。

  • 田中正造の肖像

    田中正造(たなかしょうぞう)

    たなか しょうぞう/1841–1913/明治

    公害(こうがい)に生涯(しょうがい)を使(つか)った代議士(だいぎし)

    足尾銅山(あしおどうざん)の鉱毒被害(こうどくひがい)を訴(うった)え続(つづ)けた政治家(せいじか)です。議員(ぎいん)の職(しょく)を辞(じ)し、天皇(てんのう)へ直訴(じきそ)し、最後(さいご)は廃村(はいそん)にされる被害地(ひがいち)の村(むら)へ自(みずか)ら移り住(うつりす)みました。

同じ時代の人:武田信玄、千利休、織田信長、豊臣秀吉

出典

肖像:Unknown authorUnknown author/Uesugi Jinja - https://www.uesugi-jinja.or.jp/about//Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。