ことのは年代記
聖徳太子の肖像

聖徳太子(しょうとくたいし)

しょうとく たいし/Prince Shotoku

574–622/古代・飛鳥奈良

  • 政治家
  • 皇族

話し合(はなしあ)いを、国(くに)のきまりに書(か)いた人(ひと)

推古天皇(すいこてんのう)のもとで政治(せいじ)にあたった皇族(こうぞく)です。位(くらい)を家柄(いえがら)でなく能力(のうりょく)で分(わ)ける制度(せいど)を整(ととの)え、争(あらそ)いを避(さ)けて議論(ぎろん)する心得(こころえ)を条文(じょうぶん)に残(のこ)しました。

言葉

和(わ)をもって貴(とうと)しと為(な)し、忤(さから)ふること無(な)きを宗(むね)とせよ

読み・現代語:調和(ちょうわ)を第一(だいいち)に大切(たいせつ)にし、逆(さか)らい争(あらそ)わないことを根本(こんぽん)としなさい。

十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)の第一条(だいいちじょう)として『日本書紀(にほんしょき)』に収(おさ)められた言葉(ことば)です。仲良(なかよ)くせよという意味(いみ)ではなく、対立(たいりつ)を持ち込(もちこ)まずに話し合(はなしあ)いで決(き)めよ、という役人(やくにん)への指示(しじ)でした。会議(かいぎ)の心得(こころえ)として読(よ)むと、いまも実務的(じつむてき)です。

出典:『日本書紀(にほんしょき)』所収(しょしゅう)「十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)」第一条(だいいちじょう)出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります

われ必(かなら)ずしも聖(きよし)にあらず、彼必(かれかなら)ずしも愚(ぐ)にあらず、共(とも)にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ

読み・現代語:自分(じぶん)が必(かなら)ず正(ただ)しいわけでも、相手(あいて)が必(かなら)ず愚(おろ)かなわけでもない。どちらもただの人間(にんげん)だ。

十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)の第十条(だいじゅうじょう)にある一節(いっせつ)です。意見(いけん)が食い違(くいちが)ったとき、自分(じぶん)の側(がわ)を正解(せいかい)と決(き)めてかかるなと戒(いまし)めています。相手(あいて)を言(い)い負(ま)かす前(まえ)に、自分(じぶん)も間違(まちが)えうると認(みと)める。議論(ぎろん)を始(はじ)める前(まえ)に置(お)かれた条件(じょうけん)です。

ことばの意味

凡夫(ぼんぷ)
:とくべつではない、ふつうの人のこと。

出典:『日本書紀(にほんしょき)』所収(しょしゅう)「十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)」第十条(だいじゅうじょう)出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります

世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ただふつぜしん)

読み・現代語:世の中(よのなか)のことは仮(かり)のもので、仏(ふつ)の教(おし)えだけが真実(しんじつ)である。

太子(たいし)の言葉(ことば)として、妃(きさき)が作(つく)らせた天寿国(てんじゅこく)繡帳(ちょう)の銘文(めいぶん)に伝(つた)えられています。現世(げんせい)を軽(かる)んじる響(ひび)きもありますが、目(め)の前(まえ)の権力争(けんりょくあらそ)いを絶対視(ぜったいし)しない視点(してん)でもあります。何(なに)を仮(かり)のものと見(み)るかを問(と)う言葉(ことば)です。

ことばの意味

虚仮(こけ)
:中身がなく、うわべだけのこと。

出典:天寿国(てんじゅこく)繡帳銘(ちょうめい)(太子(たいし)の言葉(ことば)として伝(つた)わる)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません

この人の歩み

574年(ねん)、用明天皇(ようめいてんすめらぎ)の子(こ)として生(う)まれました。本名(ほんみょう)は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と伝(つた)えられます。当時(とうじ)の日本(にっぽん)は、大陸(たいりく)から仏教(ぶっきょう)や制度(せいど)が入(はい)ってきた直後(ちょくご)で、受(う)け入(い)れるかどうかで豪族(ごうぞく)が激(はげ)しく対立(たいりつ)していました。蘇我氏(そがし)と物部氏(ものべし)の争(あらそ)いはその代表(だいひょう)です。

593年(ねん)、推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)として政治(せいじ)にあたったとされます。603年(ねん)の冠位十二階(かんむりいじゅうにかい)では、位(くらい)を家柄(いえがら)ではなく個人(こじん)の働(はたら)きで分(わ)ける形(かたち)を示(しめ)しました。翌(よく)604年(ねん)の十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)は、役人(やくにん)に向(む)けた心得(こころえ)を条文(じょうぶん)にしたもので、第一条(だいいちじょう)に「和(わ)」を置(お)いています。607年(ねん)には小野妹子(おのいもうとこ)を隋(ずい)へ送(おく)り、対等(たいとう)な立場(たちば)での交渉(こうしょう)を試(こころ)みました。法隆寺(ほうりゅうじ)や四天王寺(してんのうじ)の建立(こんりゅう)にも関(かか)わったと伝(つた)えられます。

622年(ねん)に亡(な)くなりました。近年(きんねん)の研究(けんきゅう)では、事績(じせき)のどこまでが本人(ほんにん)のものかについて議論(ぎろん)があり、後世(こうせい)に理想化(りそうか)された部分(ぶぶん)も指摘(してき)されています。それでも、争(あらそ)いを避(さ)けて話し合(はなしあ)う姿勢(しせい)を最初(さいしょ)の条文(じょうぶん)に置(お)いた事実(じじつ)は、長(なが)く引き継(ひきつ)がれました。

この言葉が映すもの

  • 和(対立を調停し、場を保つ)対立を調停し、場を保つ

    争(あらそ)いを避(さ)けて議論(ぎろん)せよという条文(じょうぶん)を、役人向(やくにんむ)けの心得(こころえ)の第一条(だいいちじょう)に置(お)きました。

  • 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ

    隋(ずい)へ使(つか)いを送(おく)り、大陸(たいりく)の制度(せいど)や仏教(ぶっきょう)を選(えら)んで取り入(とりい)れる道(みち)をつくりました。

  • 冠位十二階(かんむりいじゅうにかい)で、家柄(いえがら)ではなく働(はたら)きに応(おう)じて位(くらい)を与(あた)える形(かたち)を示(しめ)しています。

関わりのある人

  • 行基(ぎょうき)

    ぎょうき/668–749/古代・飛鳥奈良

    橋(はし)と池(いけ)をつくった、歩(ある)く僧(そう)

    都(と)の外(そと)へ出(で)て民衆(みんしゅう)に教(おし)えを説(と)きながら、橋(はし)や池(いけ)、道(みち)や宿(やど)を各地(かくち)につくった僧(そう)です。国(くに)に禁(きん)じられても活動(かつどう)を続(つづ)け、のちに大仏造立(だいぶつぞうりゅう)を任(まか)されました。

  • 空海の肖像

    空海(くうかい)

    くうかい/774–835/平安

    学(まな)びを、誰(だれ)にでも開(ひら)こうとした人(ひと)

    唐(とう)で密教(みっきょう)を学(まな)んで持ち帰(もちかえ)り、真言宗(しんごんしゅう)を開(ひら)いた僧(そう)です。書(しょ)にも土木(どぼく)にも通(つう)じ、身分(みぶん)を問(と)わず学(まな)べる学校(がっこう)を都(と)に開(ひら)くなど、宗教(しゅうきょう)の外側(そとがわ)の仕事(しごと)も自分(じぶん)で引(ひ)き受(う)けました。

近い言葉の人

同じ時代の人:行基、大伴家持、柿本人麻呂、額田王

出典

肖像:Unknown authorUnknown author/Taishi Town, Hyogo Prefecture [1]/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。