行基
ぎょうき/Gyoki
668–749/古代・飛鳥奈良
- 僧
- 土木
橋と池をつくった、歩く僧
都の外へ出て民衆に教えを説きながら、橋や池、道や宿を各地につくった僧です。国に禁じられても活動を続け、のちに大仏造立を任されました。
言葉
法華経を わが得しことは 薪こり 菜つみ水くみ 仕へてぞ得し
読み・現代語:私が法華経を得られたのは、薪を割り、菜を摘み、水を汲んで働いたからだ。
行基の作として勅撰和歌集に伝わる歌です。経典は机の上だけで身につくのではなく、日々の労働のなかで理解されると詠んでいます。学びと手仕事を分けなかったこの人の生き方が、そのまま出ています。
ことばの意味
- 法華経
- :仏教の経典の一つ。日蓮がとくに大切にしました。
出典:『拾遺和歌集』(行基作として伝わる歌)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ
読み・現代語:山鳥がほろほろと鳴く声を聞くと、父ではないか、母ではないかと思われる。
こちらも行基の作として伝えられる歌です。生きものの声に亡くなった親を重ねています。すべての命はどこかでつながっているという仏教の見方を、説明ではなく情景で示した一首として読まれてきました。
出典:『玉葉和歌集』(行基作として伝わる歌)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
668年、河内国(いまの大阪府)に生まれました。若くして出家し、奈良の薬師寺で学びます。当時の僧は寺の中で修行し、決められた場所以外で布教することを法で禁じられていました。行基はそこから外へ出ます。
畿内を歩きながら人々に教えを説き、同時に土木の仕事を進めました。橋を架け、ため池や水路を掘り、道に旅人のための布施屋を置く。記録では、ため池十五、溝や堀九、橋六、布施屋九など、多くの施設に関わったとされます。集まる人が増えたため、朝廷は当初これを取り締まりました。しかし民衆の支持は厚く、やがて方針が変わります。745年、日本で初めて大僧正に任じられ、東大寺の大仏をつくるための寄付と労力を集める役目を担いました。
749年、大仏の完成を見ないまま亡くなります。人々は行基菩薩と呼びました。祈ることと生活を良くすることを切り離さなかった点が、その後の日本の仏教にも影響を残しています。
この言葉が映すもの
- 利他(公のために働く)公のために働く
自分の修行の場を離れ、橋・池・宿という他人のための設備をつくり続けました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
取り締まりを受けても活動をやめず、やがて国の側が方針を変えています。
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
祈るだけでなく、水をどう引くか、橋をどこに架けるかを実地で決めています。
つながる人
関わりのある人

聖徳太子
しょうとく たいし/574–622/古代・飛鳥奈良
話し合いを、国のきまりに書いた人
推古天皇のもとで政治にあたった皇族です。位を家柄でなく能力で分ける制度を整え、争いを避けて議論する心得を条文に残しました。

空海
くうかい/774–835/平安
学びを、誰にでも開こうとした人
唐で密教を学んで持ち帰り、真言宗を開いた僧です。書にも土木にも通じ、身分を問わず学べる学校を都に開くなど、宗教の外側の仕事も自分で引き受けました。
近い言葉の人

大伴家持
おおとも の やかもち/718–785/古代・飛鳥奈良
万葉集をまとめたとされる歌人
万葉集に最も多くの歌を残し、その編纂に深く関わったとされる官人です。農民や防人など、名も身分も分からない人の歌を同じ本に収めました。

道元
どうげん/1200–1253/鎌倉・室町
ただ坐ることに、答えを置いた人
宋で学び、日本に曹洞宗を伝えた僧です。悟りを求めて坐るのではなく、坐ること自体が仏の姿だと説き、生活の細部まで修行として書き残しました。

武田信玄
たけだ しんげん/1521–1573/戦国・安土桃山
国を、人と堤でつくった人
甲斐を治めた戦国大名です。戦の強さで知られる一方、治水や法度、金山の経営など、領地の中を整える仕事に力を注ぎました。
出典
- ウィキペディア日本語版「行基」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「東大寺盧舎那仏像」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。