
田中正造
たなか しょうぞう/Shozo Tanaka
1841–1913/明治
- 政治家
- 社会運動
公害に生涯を使った代議士
足尾銅山の鉱毒被害を訴え続けた政治家です。議員の職を辞し、天皇へ直訴し、最後は廃村にされる被害地の村へ自ら移り住みました。
言葉
真の文明は山を荒さず川を荒さず村を破らず人を殺さざるべし
読み・現代語:本当の文明とは、山を荒らさず、川を荒らさず、村を壊さず、人を殺さないものであるはずだ。
日記に記した言葉です。産業が伸びることを文明と呼んでいた時代に、別の基準を示しました。何を犠牲にして得た豊かさなのかを問う視点は、公害や開発の議論でいまも引かれ続けています。
出典:田中正造の日記出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
民を殺すは国家を殺すなり
読み・現代語:民を殺すことは、国そのものを殺すことだ。
鉱毒被害の放置を批判した言葉です。国益のために住民の犠牲はやむを得ない、という論法に正面から反論しています。何のための国かという順序を、被害の現場から問い直した一文です。
出典:田中正造の演説・書簡に伝えられる言葉出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1841年、下野国(いまの栃木県)の名主の家に生まれました。若いころから領主の悪政を訴えて投獄されています。自由民権運動に加わり、1890年の第一回衆議院議員総選挙で当選しました。
同じころ、渡良瀬川の流域で異変が起きます。上流の足尾銅山から流れ出た鉱毒により、川の魚が死に、田畑が枯れ、住民に健康被害が広がりました。正造は帝国議会で繰り返し質問し、鉱業停止を求めます。しかし、銅は当時の主要な輸出品でした。政府の対応は進みません。1901年、議員を辞職し、天皇の馬車に直訴を試みて取り押さえられます。この事件で世論が動き、被害はようやく広く知られました。政府が示した対策は、遊水池をつくるために谷中村を廃村にするというものです。正造はこれに反対し、自ら村に住み込んで最後まで残りました。晩年は各地を歩き、治水と鉱毒について訴え続けています。
1913年、旅先で亡くなりました。所持品は日記と聖書、川の石ころだけだったと伝えられます。
この言葉が映すもの
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
議員の地位を捨て、直訴という手段まで使って主張を通そうとしました。
- 利他(公のために働く)公のために働く
廃村にされる村へ自ら移り住み、最後まで住民の側に立っています。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
二十年以上にわたって、同じ問題を議会でも現地でも訴え続けました。
つながる人
関わりのある人

渋沢栄一
しぶさわ えいいち/1840–1931/明治
日本資本主義の父
五百を超える会社の設立に関わった実業家です。もうけと道徳は両立すると説き、同時に六百近い社会事業にも生涯にわたって手を貸し続けました。

内村鑑三
うちむら かんぞう/1861–1930/明治
後世に何を残すかを問うた人
教会に属さない信仰を説いた思想家です。教育勅語への敬礼をめぐって職を失い、開戦論が大勢を占めるなかで日露戦争にも反対し続けました。
近い言葉の人
稲盛和夫
いなもり かずお/1932–2022/近現代の経営者
動機は善か、と自分に問うた経営者
京セラを創業し、通信会社を興し、経営破綻した航空会社を立て直した経営者です。判断の前に動機を確かめる方法を説きました。

吉田松陰
よしだ しょういん/1830–1859/幕末・維新
二年足らずで、次の世代を育てた人
長州の兵学者です。密航に失敗して幽閉されたのち、松下村塾で教えた期間はごく短いものでしたが、そこから明治維新を動かす人が多く出ました。

北里柴三郎
きたさと しばさぶろう/1853–1931/明治
治すより、防ぐを先に置いた医師
破傷風菌の純粋培養と血清療法に成功した細菌学者です。研究の場を自分で作り、日本の伝染病対策と医学教育の土台を築きました。
出典
- ウィキペディア日本語版「田中正造」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「足尾銅山鉱毒事件」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「谷中村」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/This image is available from the website of the National Diet Library/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。