北条政子
ほうじょう まさこ/Masako Hojo
1157–1225/鎌倉・室町
- 政治家
御家人の前で、演説をした人
源頼朝の妻であり、夫と息子たちの死後、実質的に幕府を率いた人です。承久の乱では御家人を前に演説して結束させました。
言葉
その恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し
読み・現代語:その恩はすでに山よりも高く、大海よりも深い。
承久の乱の直前、動揺する御家人を集めて語った演説の一節です。理屈でも命令でもなく、受けた恩の大きさを思い出させました。何のために戦うのかを、その場で作り直した言葉として知られます。
出典:『吾妻鏡』承久三年(1221年)の記事出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
名を惜しむ族は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし
読み・現代語:名を惜しむ者は、ただちに敵を討ち取り、三代の将軍が残したものを守り抜きなさい。
同じ演説の結びです。逃げてもよいと選択肢を示したうえで、残る者に何をすべきかを具体的に指示しました。感情に訴えたあと、行動を一つに絞る。演説の組み立てとして完成されています。
出典:『吾妻鏡』承久三年(1221年)の記事出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
この人の歩み
1157年、伊豆の豪族・北条時政の娘として生まれました。流人だった源頼朝と、父の反対を押し切って結ばれます。頼朝が挙兵し、鎌倉に幕府を開くと、その妻として重い立場に立ちました。
1199年に頼朝が急死します。跡を継いだ長男の頼家は御家人と対立して排除され、次男の実朝も1219年に暗殺されました。夫と二人の息子を相次いで失い、源氏の将軍が絶えます。政子は出家していましたが、幕府の実権を弟の義時とともに握り、尼将軍と呼ばれました。1221年、後鳥羽上皇が幕府打倒の兵を挙げます。朝廷に弓を引くことへの動揺が御家人に広がりました。政子は彼らを集め、頼朝から受けた恩は山より高く海より深いと述べ、恩を返すのは今だと訴えます。動揺は収まり、幕府軍は上洛して勝利しました。この後、幕府の力は朝廷を上回ります。
1225年に亡くなりました。制度の上では表に出られない立場から、実際の判断を担い続けた人です。
この言葉が映すもの
- 和(対立を調停し、場を保つ)対立を調停し、場を保つ
割れかけた御家人を一つにまとめ、内側から崩れるのを止めました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
夫と二人の息子を失っても退かず、幕府の判断を担い続けています。
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
受けた恩と返すべき筋を、飾らずに正面から言葉にしました。
つながる人
関わりのある人

徳川家康
とくがわ いえやす/1543–1616/戦国・安土桃山
待つことで、二百六十年を用意した人
人質として少年期を過ごし、二度の主君の死を経て天下を取った武将です。江戸幕府を開き、その後二百六十年余り続く体制の骨組みをつくりました。

広岡浅子
ひろおか あさこ/1849–1919/近現代の経営者
炭鉱に入り、銀行を興した人
両替商に嫁いだのち、自ら炭鉱と銀行の経営に乗り出した実業家です。晩年は女性が学べる場をつくることに力を注ぎました。
近い言葉の人


道元
どうげん/1200–1253/鎌倉・室町
ただ坐ることに、答えを置いた人
宋で学び、日本に曹洞宗を伝えた僧です。悟りを求めて坐るのではなく、坐ること自体が仏の姿だと説き、生活の細部まで修行として書き残しました。

出典
- ウィキペディア日本語版「北条政子」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「承久の乱」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「吾妻鏡」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。