
高杉晋作
たかすぎ しんさく/Shinsaku Takasugi
1839–1867/幕末・維新
- 志士
- 軍事
身分を問わない軍隊をつくった人
長州藩の志士です。武士以外も入れる奇兵隊をつくり、二十七歳で亡くなるまでの数年で藩の方針を二度ひっくり返しました。
言葉
おもしろきこともなき世をおもしろく
読み・現代語:面白いこともないこの世を、面白く。
辞世として伝えられる句です。下の句は残されておらず、看病していた人が付けたという説があります。世の中が面白くないのは前提として、それをどうするかを自分の側に引き受けた言い方になっています。
出典:高杉晋作の辞世の句出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝をしてみたい
読み・現代語:世界じゅうのカラスを殺してでも、あなたと朝寝坊がしてみたい。
高杉が好んだ都々逸として伝えられています。夜明けを告げるカラスがいなければ朝が来ない、という理屈です。命がけの活動を続けた人が、同時にこういう戯れ歌を残していた、という記録として読めます。
出典:高杉晋作が詠んだとして伝わる都々逸出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1839年、長州藩の上級武士の家に生まれました。吉田松陰の松下村塾に学びます。1862年、幕府の使節に随行して上海へ渡りました。そこで見たのは、列強の支配下に置かれ、自国民が立場を失っている清の姿です。この見聞が、その後の行動を決めたと本人が書いています。
1863年、外国船との戦いで敗れた長州藩で、高杉は奇兵隊を結成しました。武士だけでなく、農民や町人も志願で加える部隊です。身分ではなく能力で編成するという発想は、当時としては異例でした。1864年、四国連合艦隊との講和交渉を任され、領土の要求を退けています。同じ年、藩の方針が幕府への恭順に転じると、わずかな兵で挙兵しました。功山寺での決起です。この動きから藩論は再び倒幕へ傾き、翌年の第二次長州征討では幕府軍を退けました。
1867年、結核により二十七歳で亡くなります。明治維新を見ることはありませんでした。辞世とされる句は、上の句だけが残り、下の句には複数の説があります。
この言葉が映すもの
- 進取(未知へ踏み出す)未知へ踏み出す
武士以外も志願で加える部隊をつくり、身分による編成を崩しました。
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
藩の方針が反対に振れたあとも、わずかな兵で挙兵して押し戻しています。
つながる人
関わりのある人

吉田松陰
よしだ しょういん/1830–1859/幕末・維新
二年足らずで、次の世代を育てた人
長州の兵学者です。密航に失敗して幽閉されたのち、松下村塾で教えた期間はごく短いものでしたが、そこから明治維新を動かす人が多く出ました。

坂本龍馬
さかもと りょうま/1836–1867/幕末・維新
敵同士を、引き合わせた人
土佐藩を脱藩し、海運と貿易の結社を興した志士です。対立していた薩摩と長州を結ぶ役目を果たし、新しい政治体制の案も示しました。

勝海舟
かつ かいしゅう/1823–1899/幕末・維新
負ける側の、後始末をした人
幕府の海軍を育てた幕臣です。自分が仕える体制の敗北を早くから見通し、西郷隆盛との会談で江戸を戦火から救う道をまとめました。
近い言葉の人

広岡浅子
ひろおか あさこ/1849–1919/近現代の経営者
炭鉱に入り、銀行を興した人
両替商に嫁いだのち、自ら炭鉱と銀行の経営に乗り出した実業家です。晩年は女性が学べる場をつくることに力を注ぎました。


出典
- ウィキペディア日本語版「高杉晋作」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキクォート日本語版「高杉晋作」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「奇兵隊」(CC BY-SA 4.0)
肖像:作者不明/『レンズが撮らえた 幕末維新の志士たち』 小沢健志 監修 山川出版社 2012年/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。