
菅原道真
すがわら の みちざね/Sugawara no Michizane
845–903/平安
- 学者
- 官僚
- 歌人
学問で昇り、政争で流された人
学者の家に生まれ、右大臣まで昇った文人です。政争に敗れて大宰府へ流され、のちに学問の神として祀られるようになりました。
言葉
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
読み・現代語:春風が吹いたら香りを送っておくれ、梅の花よ。主人がいなくなっても春を忘れないで。
大宰府へ流される直前、屋敷の梅に向けて詠んだ歌と伝えられます。恨みごとではなく、残していくものへの呼びかけになっているのが特徴です。去る側が最後に何を言うかで、その人が見えてきます。
出典:『拾遺和歌集』ほか(結句を「春な忘れそ」とする本もあります)出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
和魂漢才
読み・現代語:日本で育った心と、大陸から学んだ知識の両方を持つ。
道真の言葉として広まった四字ですが、本人の著作にあるとは確認されていません。外から学んだ知識を、自分の土台の上に置く姿勢を指します。後の時代の「士魂商才」など、同じ形の言い方を生みました。
出典:後世に道真の語として伝えられたもの出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
845年、代々学者を務めた菅原家に生まれました。幼いころから漢詩に優れ、若くして官吏登用の試験に合格します。当時の朝廷では家柄がものを言いましたが、道真は学問の力で位を上げていきました。讃岐守として地方に赴任した経験も持ちます。
宇多天皇に重く用いられ、894年には遣唐使の停止を建議しました。唐の内乱で渡航の危険が増し、得られるものと危険が釣り合わなくなったという判断です。これ以降、日本は大陸の文化を自分たちの形に作り替えていきます。899年に右大臣となりますが、藤原氏との対立が深まり、901年、身に覚えのない罪で大宰府へ左遷されました。都を離れるとき、庭の梅に呼びかけた歌が残されています。
903年、大宰府で亡くなりました。その後、都で落雷や疫病が続き、道真の祟りと恐れられて北野天満宮に祀られます。やがて学問の神として広く信仰され、いまも受験の前に多くの人が訪れます。
この言葉が映すもの
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
家柄ではなく学問で右大臣まで昇り、学ぶことが道を開く例になりました。
- 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる
遣唐使の停止では、前例より現地の実情を優先して自分の名で建議しています。
- 美(簡素・余白・見立て)簡素・余白・見立て
左遷という場面でさえ、恨みではなく梅への呼びかけとして歌にしました。
つながる人
関わりのある人

空海
くうかい/774–835/平安
学びを、誰にでも開こうとした人
唐で密教を学んで持ち帰り、真言宗を開いた僧です。書にも土木にも通じ、身分を問わず学べる学校を都に開くなど、宗教の外側の仕事も自分で引き受けました。

紫式部
むらさき しきぶ/生没年不詳/平安
人の心の動きを、初めて長編にした人
『源氏物語』を書いた作家です。恋や嫉妬、老いといった心の揺れを、五十四帖の長編として書ききり、日本語で書かれた文学の基準をつくりました。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「菅原道真」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「遣唐使」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「北野天満宮」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/『束帯天神像』/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。

