
野口英世
のぐち ひでよ/Hideyo Noguchi
1876–1928/明治
- 細菌学者
- 医師
手の火傷から医学へ進んだ人
貧しい農家に生まれ、独学に近い形で医師になった細菌学者です。海外で研究を続け、黄熱病の調査中に自ら感染して亡くなりました。
言葉
志を得ざれば再び此の地を踏まず
読み・現代語:志を成し遂げられなければ、二度とこの地を踏まない。
上京する際、実家の柱に刻んだ言葉として伝えられています。退路を断つ宣言です。実際には後に一度だけ帰郷しました。若い決意の記録として、そのまま柱に残っているところに意味があります。
出典:上京の際に実家の柱に刻んだとされる言葉出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
忍耐は苦い。しかし、その実は甘い
読み・現代語:耐えることは苦い。しかし、そこから実る果実は甘い。
野口の言葉として伝えられていますが、もとはフランスの格言だとされます。本人が好んで引いたものです。自分の言葉かどうかより、どんな言葉を支えにしていたかが分かる例として収めています。
出典:野口英世が好んで引いた言葉(もとはフランスの格言)出典の確度:伝承。後世に語り伝えられてきた言葉で、本人の発言とは確認できていません
この人の歩み
1876年、福島の貧しい農家に生まれました。一歳のとき囲炉裏に落ち、左手に大きな火傷を負います。指が癒着して使えなくなりました。小学校で同級生に助けられて手術を受け、手がある程度動くようになった経験から、医学の道を志します。
上京して医術開業試験に合格し、伝染病研究所で北里柴三郎のもとに入りました。1900年、渡米します。ペンシルベニア大学、次いでロックフェラー医学研究所で研究を続けました。梅毒の病原体を脳や脊髄の組織から見つけた業績で知られ、ノーベル賞の候補にも複数回挙がっています。ただし、当時の技術では確認できなかった対象も扱っており、後年になって否定された成果もあります。1918年から中南米で黄熱病の研究に取り組み、1927年にはアフリカのガーナへ渡りました。当時、黄熱病の病原体は細菌だと考えられていましたが、実際はウイルスで、当時の顕微鏡では見えないものでした。
1928年、自ら黄熱病に感染し、五十一歳で亡くなります。最後の言葉は、私には分からない、だったと伝えられます。
この言葉が映すもの
- 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる
使えない手と貧しさという条件から、独学に近い形で医師の資格を取りました。
- 学(学び続ける、外から学ぶ柔軟さ)学び続ける、外から学ぶ柔軟さ
国内に場が無いと見ると渡米し、研究の場そのものを移しています。
つながる人
関わりのある人

北里柴三郎
きたさと しばさぶろう/1853–1931/明治
治すより、防ぐを先に置いた医師
破傷風菌の純粋培養と血清療法に成功した細菌学者です。研究の場を自分で作り、日本の伝染病対策と医学教育の土台を築きました。

緒方洪庵
おがた こうあん/1810–1863/幕末・維新
医は自分のためではないと書いた人
大坂で適塾を開いた蘭方医です。天然痘の予防に取り組み、医師の心得を訳して残しました。福沢諭吉ら多くの人材が学んでいます。
近い言葉の人
出典
- ウィキペディア日本語版「野口英世」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキクォート日本語版「野口英世」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「黄熱病」(CC BY-SA 4.0)
肖像:Unknown authorUnknown author/Noguchi Hideyo Memorial Hall/Public domain/出典ページ
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。

