ことのは年代記
日蓮の肖像

日蓮(にちれん)

にちれん/Nichiren

1222–1282/鎌倉・室町

  • 僧
  • 思想家

国(くに)に向(む)かって諫言(げん)した僧(そう)

日蓮宗(にちれんむね)の開祖(かいそ)です。続(つづ)く災害(さいがい)と飢饉(ききん)の原因(げんいん)を国(くに)の姿勢(しせい)に求(もと)めて幕府(ばくふ)に諫言(げん)し、庵(あん)を焼(や)かれ、二度(にど)の流罪(るざい)と処刑寸前(しょけいすんぜん)の場面(ばめん)を経験(けいけん)しました。

言葉

一切衆生(いっさいしゅじょう)の異(こと)の苦(く)を受(う)くるは、悉(ことごと)く是(ぜ)れ日蓮一人(にちれんいちにん)の苦(く)なり

読み・現代語:生(い)きとし生(い)けるものが受(う)けているさまざまな苦(く)しみは、すべて日蓮(にちれん)ひとりの苦(く)しみである。

他人(たにん)の苦(く)しみを、自分(じぶん)の苦(く)しみとして引(ひ)き受(う)けると宣言(せんげん)した言葉(ことば)です。同情(どうじょう)ではなく、自分(じぶん)の問題(もんだい)として抱え込(かかえこ)みました。流罪(るざい)や襲撃(しゅうげき)を受(う)けても主張(しゅちょう)を変(か)えなかった理由(りゆう)が、この引(ひ)き受(う)け方(ほう)に表(あらわ)れています。

ことばの意味

衆生(しゅじょう)
:生きているものすべてのこと。人だけでなく動物も含みます。

出典:日蓮(にちれん)『諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

汝(なんじ)、早(はや)く信仰(しんこう)の寸心(すんしん)を改(あらた)めよ

読み・現代語:あなたは早(はや)く、心(こころ)の持(も)ち方(かた)を改(あらた)めなさい。

『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』で、時(とき)の権力(けんりょく)に向(む)けて書(か)いた言葉(ことば)です。相手(あいて)は自分(じぶん)を罰(ばっ)することのできる立場(たちば)でした。それでも要求(ようきゅう)を下(さ)げていません。言(い)う相手(あいて)を選(えら)ばないという姿勢(しせい)が、その後(ご)の生涯(しょうがい)をそのまま決(き)めました。

出典:日蓮(にちれん)『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です

この人の歩み

1222年(ねん)、安房国(あわくに)(いまの千葉県(ちばけん))の漁師(りょうし)の家(いえ)に生(う)まれました。地方(ちほう)の寺(てら)で学(まな)んだのち、比叡山(ひえいざん)などで諸宗(しょしゅう)を学(まな)びます。結論(けつろん)として、法華経(ほけきょう)こそ根本(こんぽん)の教(おし)えだと考(かんが)えるようになりました。1253年(ねん)、故郷(こきょう)で題目(だいもく)を唱(とな)えることを説(と)き始(はじ)めます。

当時(とうじ)の日本(にっぽん)は、地震(じしん)、飢饉(ききん)、疫病(やくびょう)が続(つづ)いていました。1260年(ねん)、日蓮(にちれん)は『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を書(か)いて幕府(ばくふ)に提出(ていしゅつ)します。災害(さいがい)が続(つづ)くのは、誤(あやま)った教(おし)えが広(ひろ)がり、国(くに)の姿勢(しせい)が正(ただ)しくないからだという主張(しゅちょう)でした。あわせて、このままでは内乱(ないらん)と外国(がいこく)からの侵略(しんりゃく)が起(お)きると予告(よこく)しています。他宗(たしゅう)を強(つよ)く批判(ひはん)したため、庵(あん)を焼(や)かれ、伊豆(いず)へ流(なが)されました。赦免後(しゃめんご)も主張(しゅちょう)を変(か)えず、1271年(ねん)には斬首寸前(ざんしゅすんぜん)まで行(い)き、佐渡(さど)へ流(なが)されます。佐渡(さど)での二年半(にねんはん)、寒(さむ)さと食糧(しょくりょう)の乏(まず)しさのなかで主要(しゅよう)な著作(ちょさく)を書(か)きました。1274年(ねん)と1281年(ねん)に元(もと)が襲来(しゅうらい)し、予告(よこく)が結果的(けっかてき)に当(あ)たった形(かたち)になります。

1282年(ねん)に亡(な)くなりました。信(しん)じる内容(ないよう)のために国家(こっか)に対(たい)して言(い)い続(つづ)けた姿勢(しせい)は、後(ご)の時代(じだい)にも繰り返(くりかえ)し引用(いんよう)されています。

この言葉が映すもの

  • 誠(言と行を一致させる)言と行を一致させる

    罰(ばっ)する力(ちから)を持(も)つ相手(あいて)にも同(おな)じ主張(しゅちょう)を通(とお)し、流罪(るざい)を受(う)けても取り下(とりさ)げませんでした。

  • 粘(諦めず積み上げる)諦めず積み上げる

    焼き討(やきう)ち、二度(にど)の流罪(るざい)、斬首寸前(ざんしゅすんぜん)を経(へ)てなお、三十年近(さんじゅうねんちか)く説(と)き続(つづ)けています。

関わりのある人

  • 親鸞の肖像

    親鸞(しんらん)

    しんらん/1173–1263/鎌倉・室町

    自分(じぶん)を善人(ぜんにん)の側(がわ)に置(お)かなかった僧(そう)

    浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖(かいそ)とされる僧(そう)です。妻(つま)を持(も)ち肉食(にくしょく)もする僧(そう)として生(い)き、救(すく)われる資格(しかく)のない者(もの)こそ救(すく)いの対象(たいしょう)だと説(と)きました。

  • 道元の肖像

    道元(どうげん)

    どうげん/1200–1253/鎌倉・室町

    ただ坐(すわ)ることに、答(こた)えを置(お)いた人(ひと)

    宋(そう)で学(まな)び、日本(にっぽん)に曹洞宗(そうとうしゅう)を伝(つた)えた僧(そう)です。悟(さと)りを求(もと)めて坐(すわ)るのではなく、坐(すわ)ること自体(じたい)が仏(ふつ)の姿(すがた)だと説(と)き、生活(せいかつ)の細部(さいぶ)まで修行(しゅぎょう)として書き残(かきのこ)しました。

近い言葉の人

  • 北条政子(ほうじょうまさこ)

    ほうじょう まさこ/1157–1225/鎌倉・室町

    御家人(ごけにん)の前(まえ)で、演説(えんぜつ)をした人(ひと)

    源頼朝(みなもとよりとも)の妻(つま)であり、夫(おっと)と息子(むすこ)たちの死後(しご)、実質的(じっしつてき)に幕府(ばくふ)を率(ひき)いた人(ひと)です。承久(うけたまわひさ)の乱(らん)では御家人(ごけにん)を前(まえ)に演説(えんぜつ)して結束(けっそく)させました。

  • 鴨長明の肖像

    鴨長明(かものちょうめい)

    かもの ちょうめい/1155–1216/鎌倉・室町

    災害(さいがい)の記録(きろく)を、書き残(かきのこ)した人(ひと)

    『方丈記(ほうじょうき)』を書(か)いた随筆家(ずいひつか)です。都(と)を襲(おそ)った火災(かさい)・飢饉(ききん)・地震(じしん)を具体的(ぐたいてき)に記録(きろく)し、小(ちい)さな組み立(くみた)て式(しき)の庵(あん)で晩年(ばんねん)を過(す)ごしました。

  • 上杉謙信の肖像

    上杉謙信(うえすぎけんしん)

    うえすぎ けんしん/1530–1578/戦国・安土桃山

    領土(りょうど)より、筋(すじ)を選(えら)んだ武将(ぶしょう)

    越後(えちご)を治(おさ)めた戦国大名(せんごくだいみょう)です。頼(たの)まれて出兵(しゅっぺい)することが多(おお)く、勝(か)っても土地(とち)をあまり取(と)らなかったため、義(ぎ)の武将(ぶしょう)と呼(よ)ばれてきました。

同じ時代の人:鴨長明、北条政子、親鸞、道元

出典

肖像:Fujiwara-no Chikayasu/http://www.nichiren-shu.org/boston/pages/Honzon/Shonin.htm/Public domain/出典ページ

本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。