岩田聡
いわた さとる/Satoru Iwata
1959–2015/現代の技術者
- プログラマ
- 経営者
- ゲーム開発
社長になってもプログラマだった人
自分でコードを書き続けたゲーム開発者であり、任天堂の社長を務めた人です。技術者の立場から、遊ぶ人の側に立った製品を出しました。
言葉
名刺の上では、私は会社の社長です。頭の中では、ゲーム開発者です。しかし心の中では、私はゲーマーです
読み・現代語:肩書きは社長、考え方は開発者、そして心のうちでは一人の遊び手だ。
2005年、海外の開発者会議での講演の冒頭で述べた自己紹介です。三つの立場を並べ、最後に遊ぶ側を置きました。誰のために作っているかを、自分の位置の話として言い切った一言です。
出典:2005年 ゲーム開発者会議での講演出典の確度:確実。本人の著作や記録で確認できる言葉です
手直ししていく方法だと二年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります
開発が行き詰まっていた作品を引き受けたときの発言として伝えられています。直すより作り直すほうが速い場合がある、という技術者の見積もりです。工数を正面から示して選ばせる、という交渉のしかたでもあります。
出典:開発中の作品を引き受けた際の発言として伝えられるもの出典の確度:諸説あり。本人の言葉とされますが、表現や場面に諸説あります
この人の歩み
1959年、北海道に生まれました。高校生のとき、電卓でゲームを作り始めます。東京工業大学在学中からゲーム会社に出入りし、卒業後はハル研究所に入りました。プログラマとしての腕は当時から知られ、他社の開発が行き詰まった場面で呼ばれることが何度もあります。会社が経営難に陥ったとき、三十代で社長を引き受けて立て直しました。
2000年に任天堂へ移り、2002年に社長となります。技術がわかる立場から、性能競争とは別の方向を選びました。画面に触れて操作する携帯機、振って動かすリモコンなど、それまでゲームを遊ばなかった人が手に取れる形を出します。開発者に長い時間をかけて話を聞き、その内容を公開する取り組みも自ら進めました。開発の遅れで発売が延びたときは、自分の名前で説明を出しています。業績が落ちた時期にも人員整理を避け、自分の報酬を減らす形を選びました。
2015年、五十五歳で亡くなります。プログラマとして始めた人が、最後まで作る側の視点を手放さなかった例です。
この言葉が映すもの
- 匠(手仕事を極める、細部への敬意)手仕事を極める、細部への敬意
経営者になってからも、自分でコードを読み書きする立場を手放しませんでした。
- 利他(公のために働く)公のために働く
性能を競う代わりに、遊んだことのない人が手に取れる形を優先しています。
- 和(対立を調停し、場を保つ)対立を調停し、場を保つ
開発者の話を長く聞いて公開し、作り手と遊び手の間をつなぎました。
つながる人
関わりのある人
まつもとゆきひろ
まつもと ゆきひろ/1965–没年不詳/現代の技術者
楽しさを設計目標に置いた言語作者
プログラミング言語Rubyを作った技術者です。処理の速さより、書く人が読みやすく楽しく書けることを設計の目標に置きました。
手塚治虫
てづか おさむ/1928–1989/大正・昭和(文化・学術)
描く速さより、描く量で道を作った人
戦後の漫画の形を作り、テレビアニメの仕組みも立ち上げた作家です。生涯に十五万枚を超える原稿を描いたとされます。
近い言葉の人
井深大
いぶか まさる/1908–1997/近現代の経営者
愉快な理想工場を、設立趣意書に書いた人
焼け跡の小さな工場からソニーを興した技術者です。技術者が自由に働ける場を作ることを、創業の目的として文章に残しました。
柳宗悦
やなぎ むねよし/1889–1961/大正・昭和(文化・学術)
無名の職人の器に美を見た人
日々使われる日用品にこそ美しさがあると説き、民藝運動を始めた思想家です。各地を歩いて名もない職人の手仕事を集め、記録に残しました。

新渡戸稲造
にとべ いなぞう/1862–1933/明治
太平洋の橋になろうとした人
農学者であり教育者です。英語で『武士道』を著して日本の道徳観を外へ伝え、のちに国際連盟の事務次長として各国の調整にあたりました。
同じ時代の人:まつもとゆきひろ
出典
- ウィキペディア日本語版「岩田聡」(CC BY-SA 4.0)
- ウィキペディア日本語版「任天堂」(CC BY-SA 4.0)
肖像:利用条件を満たす画像が確認できなかったため、掲載していません。代わりに、この人物の軸の色でつくった模様を表示しています。
本文は上記を参照して編者が要約・再構成したものです。原文の転載ではありません。