3-13C分析とSTP分析
駅前にベイクマートが開店して1か月。こむぎ堂は値下げをせず、地元の米粉を使った朝ごはんのパンで勝負すると決めました。その最初の一品、米粉ベーグルの試作が土曜の朝に焼き上がります。店長は店先に試食台を出し、「これはみんなに売れるよ」と胸を張りました。ところが、感想はばらばらでした。常連の高校生は「おいしいけど、朝に買うには高い」、近所の会社員は「昼に食べたい」、年配の常連客は「もう少しやわらかいといいね」。誰に向けたパンなのかが決まらないので、値段も、焼く数も、置く棚も決められません。ミナトは相棒に打ち込みました。「“みんな”って、誰のことなんだろう」
相棒の返事は、客を分ける前にもう一歩引いて見ることを勧めるものでした。「買う人、ほかの店、こむぎ堂自身。三つの方向から並べてみよう」。事業を取り巻く状況を、この三つの視点から整理する方法を3C分析といいます。三つのCは、それぞれ英語の頭文字です。
一つめのCustomer(顧客)では、市場の大きさや、客が何を求めているかを見ます。駅前の通りには、朝ごはんを食べずに家を出る通勤客が多く、試食した高校生は値段を気にしていました。二つめのCompetitor(競合)では、ほかの店の戦略や強さを見ます。ベイクマートの100円の食パンと、駅の売店に並ぶおにぎりやコンビニのパンがそれにあたります。三つめのCompany(自社)では、自分たちの経営資源と強み・弱みを見ます。こむぎ堂には地元の米粉と天然酵母がありますが、朝に焼ける数には限りがあります。
三つを並べると、試食台での行き詰まりの理由が見えてきます。こむぎ堂は、客を一つの塊として見ていました。高校生と会社員と年配客では、パンを買う時間も、払える値段も、食べる場所も違います。そこで、市場を年齢や住む場所、買う時間帯、買う目的といった共通の性質でいくつかの集団に分けます。この作業をセグメンテーションといいます。こむぎ堂の客を買う時間帯で分けると、「朝の通学・通勤の客」「昼休みの会社員」「午後にゆっくり来る年配客」の三つの集団になりました。
ここから基本情報!分ける・選ぶ・位置を決める
市場を分けたあと、狙う集団を選び、その集団の中で競合と比べた自社の位置を決める。この3段階をまとめてSTP分析と呼びます。Segmentation(細分化)、Targeting(標的の選定)、Positioning(位置づけ)の頭文字です。
2段階めのターゲティングでは、分けた集団のうちどれを狙うかを選びます。選ぶときに比べるのは、その集団の大きさとこれから伸びるか、競合がどれだけ強いか、自社の強みと合っているか、といった点です。朝の通勤客は人数が多く、ベイクマートが開く前の時間に買いに来ます。こむぎ堂は朝6時に開くので、時間の点では強みと合っています。
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狙う集団を決めても、その客の前にはほかの店のパンも並んでいます。そこで、客の頭の中で、自社の商品が競合と比べてどんな位置に見えてほしいかを決めます。これをポジショニングといいます。ミナトは「値段」と「手軽さ」の2本の軸で地図を描き、ベイクマートの食パン(安いが、家で切って焼く手間がかかる)、コンビニのパン(手軽だが、どこでも同じ味)を置いてみました。すると「少し高いが、歩きながら片手で食べられて、ここでしか買えない」という場所が空いていました。
ただ、この地図はミナトが頭の中で描いたものです。朝の通勤客が本当に片手で食べたいのか、少し高くても買うのかは、まだ誰にも聞いていません。試食台の感想は、3人分しかありませんでした。
3-2市場調査
日曜の閉店後、ミナトはアンケートの紙を作り始めました。店長は「ポイントカードの会員は300人いるから、全員に聞けばいいよ」と言います。ミナトは300枚を配って集める手間を考えて、手が止まりました。そもそも、通勤客の多くはまだこむぎ堂の会員ではありません。
商品を企画したり売り方を考えたりするために、市場や客の動き、考えを調べることを市場調査(マーケティングリサーチ)といいます。調べたい集団の全員に聞ければ確かですが、時間も費用もかかります。そこで、調べたい集団の全体(母集団)から一部の人(標本)を選んで調べ、その結果から全体の傾向を推し量ります。標本を選ぶこの手順をサンプリングといいます。
サンプリングでは、選び方の偏りに気をつけます。土曜の朝だけアンケートを配れば、平日に駅へ急ぐ通勤客の声は入りません。標本が全体の縮図になっていなければ、人数を増やしても全体の傾向は分かりません。ミナトは平日と週末の朝・昼・午後に分けて、それぞれ20人ずつ、合わせて120人に聞くことにしました。
調べにくい数もあります。駅前の通りを、朝にパンを買いそうな人がどれだけ通るのかは、どこにも載っていません。こうした数を、手がかりになる数に分けて、筋道を立てて大まかに見積もる方法をフェルミ推定といいます。ミナトは相棒と、次のように見積もりました。
| 手がかり | 仮に置いた数 | 計算 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 駅を朝7時台に使う人 | 3,000人 | (駅の掲示と人の流れから仮置き) | 3,000人 |
| そのうち店の前の通りを通る人 | 4割 | 3,000 × 0.4 | 1,200人 |
| 朝ごはんを買って食べる人 | 2割 | 1,200 × 0.2 | 240人 |
一つ一つの数は仮置きなので、240人という答えが正確だとは言えません。それでも、3人の感想から想像するよりはずっと確かな手がかりになります。どの仮置きを確かめれば答えが大きく動くか(たとえば「2割」が本当か)も、分けて書いたことで見えるようになります。
ここから基本情報!市場調査の手法
市場調査で情報を集める手法は、大きく三つに分けられます。アンケートやインタビューで、相手に直接たずねて答えをもらうのが質問法です。たずねずに、実際の行動や様子を見て記録するのが観察法です。条件を変えた状況をいくつか用意して、結果の違いを比べ、仮説を確かめるのが実験法です。
| 手法 | 集め方 | こむぎ堂の例 |
|---|---|---|
| 質問法 | 相手にたずねる | 120人へのアンケート |
| 観察法 | 行動を見て記録する | 朝の店先で、客がどの棚の前で足を止めるかを数える |
| 実験法 | 条件を変えて比べる | 月曜はレジ横、火曜は入口にベーグルを置き、売れた数を比べる |
質問法には、答える人が実際とは違う答えを言いやすいという弱点があります。「朝ごはんは毎日食べる」と答えた人が、本当に毎朝食べているとは限りません。観察法は行動そのものを見られますが、なぜそうしたかまでは分かりません。目的によって手法を組み合わせます。
質問の仕方にも工夫があります。値段・大きさ・袋の種類のように、商品をつくる性質(属性)を組み合わせた案をいくつも見せ、どの案を好むかを答えてもらいます。その答えを統計的に分析して、どの属性がどれだけ買う決め手になっているかを推し量る手法をコンジョイント分析といいます。「240円・普通サイズ・紙袋」と「280円・大きめ・紙袋」のような案を順に並べてもらうと、通勤客にとって40円の差と大きさの差のどちらが重いかが分かります。「値段は安いほうがいい」「大きいほうがいい」と一つずつ聞いても、どちらを優先するかは分かりません。
集めたデータの見方にも型があります。同じ時点の、いくつもの対象のデータを横に並べて比べる分析の方法をクロスセクション法(横断分析法)といいます。同じ1か月の、町の5軒のパン屋の値段と客数を並べて比べるのがこの見方です。一つの対象を、時間を追って比べる時系列分析とは、データの並べ方の向きが違います。
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1週間かけて120人分のアンケートが集まりました。朝の通勤客の答えには、「片手で食べられるなら買う」がいちばん多く並んでいました。ただし、アンケートに答えてくれるのは、もともと店に関心のある人です。答えた人が実際に買い続けるかは、紙の上からは分かりません。
3-3顧客データの分析
アンケートの集計を見た店長が言いました。「うちのレジには、ポイントカードで買った記録がもう2年分たまっているんだよ」。予約システムにも、会員ごとの注文の履歴が残っています。ミナトは記録を表計算ソフトに読み込み、何万行もの数字を前に、どこから見ればよいか分からなくなりました。
相棒が勧めたのは、客ごとに三つの数だけを取り出すことでした。最後に買ったのはいつか(Recency:最終購買日)、どれだけよく来るか(Frequency:購買頻度)、合わせていくら使ったか(Monetary:累計購買金額)。この三つの指標で客を評価し、グループに分ける分析をRFM分析といいます。
| 会員 | R:最後に買った日 | F:来た回数 | M:使った金額 | 見えること |
|---|---|---|---|---|
| Aさん | 3日前 | 48回 | 19,200円 | いまも通う常連 |
| Bさん | 6週間前 | 40回 | 16,000円 | 以前の常連が離れかけている |
| Cさん | 5日前 | 2回 | 3,600円 | 来始めたばかりで、1回の買い物が大きい |
金額だけで並べると、AさんとBさんはほとんど同じ客に見えます。最後に買った日を足すと、Bさんはベイクマートの開店のころから来なくなっていたことが分かります。同じ割引券を3人に配るより、Bさんには「新しい米粉ベーグルができました」と知らせ、Cさんにはもう一度来てもらう理由を作るほうが、打つ手として筋が通ります。
ここから基本情報!購買データから規則を見つける
レジの記録からは、一緒に買われる組み合わせも分かります。POSデータなどから、客が同時に買う商品の組み合わせの傾向を調べる手法をマーケットバスケット分析(バスケット分析)といいます。試しに並べた米粉ベーグルを買った人の4割が、同じ会計でコーヒーも買っていました。それなら、ベーグルとコーヒーを隣に置く、組み合わせの値段を付ける、といった手が考えられます。
たまった大量のデータの中から、繰り返し現れる規則性や型を自動で見つけ出す技術をパターン認識といいます。画像や音声を見分ける技術として知られていますが、売上の記録から「雨の月曜の朝は、甘いパンより塩味のパンが売れる」といった型を拾い出すのにも使われます。
二つの量の関係を式で表すこともできます。朝7時台の客数を x、その時間のベーグルの販売数を y として、記録から直線 y = a + bx を当てはめるのが回帰分析です。この直線の傾き b を回帰係数と呼び、x が1増えたときに y がどれだけ変わるかを表します。
| 朝7時台の客数 x | 計算 | ベーグルの販売数 y |
|---|---|---|
| 40人 | 4 + 0.25 × 40 = 4 + 10 | 14個 |
| 80人 | 4 + 0.25 × 80 = 4 + 20 | 24個 |
回帰係数の0.25は、客が4人増えるごとにベーグルが1個多く売れる、という読み方になります。客数の見込みが立てば、朝に焼く数の目安が立ちます。
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データから分かるのは、客が「何を、いつ、どれだけ」買ったかです。なぜ買ったのか、なぜ来なくなったのかは、記録の数字には残っていません。
3-4顧客が買うまでの動き
米粉ベーグルを試しに棚に並べて1週間。最初の3日間に買ったのは、新しいパンが出るとすぐ手に取る、いつもの数人だけでした。4日めの夜、町の料理教室を開いている常連客が、ベーグルの写真をSNSに載せます。翌朝、「写真で見たベーグルはありますか」と聞く客が、開店から30分で7人来ました。
客が商品を知ってから買うまでには、いくつかの段階があります。広告や店先で目に留まり(Attention:注意)、気になって(Interest:関心)、欲しくなり(Desire:欲求)、覚えておいて(Memory:記憶)、店で買う(Action:行動)。この5段階で客の心の動きを表したモデルをAIDMAといいます。SNSの写真を見た人は、Attention から Desire までを一晩で進み、翌朝の通勤の途中で Action に移ったことになります。
段階に分けると、どこで客が止まっているかを考えられます。最初の3日間に売れなかったのは、ベーグルが棚の奥にあって、多くの客の目に留まらなかった(Attention の段階で止まっていた)からかもしれません。
買うまでの速さも、人によって違います。最初の3日間に買った数人のように、新しい商品を誰よりも早く試す人たちをイノベーターと呼びます。新しいものへの関心が強く、多少の失敗を気にせず手を出す人たちです。
ここから基本情報!新しい商品が広まる順番
新しい商品を採用する時期の早い順に、客を5つの層に分けて、商品が広まっていく過程を説明する考え方をイノベータ理論といいます。アメリカの社会学者 E.M.ロジャーズが、1962年の著書『イノベーションの普及』(Diffusion of Innovations)で示しました。
| 層 | 割合 | 特徴 |
|---|---|---|
| イノベータ | 2.5% | 真っ先に試す |
| アーリーアダプタ(初期採用者) | 13.5% | 自分で情報を集めて早めに採用し、周りに影響を与える |
| アーリーマジョリティ(前期追随者) | 34% | 慎重だが、平均より早く採用する |
| レイトマジョリティ(後期追随者) | 34% | 疑い深く、周りの多くが使い始めてから採用する |
| ラガード(遅滞者) | 16% | 伝統を重んじ、最後まで採用しないことも多い |
こむぎ堂のベーグルでいえば、写真を載せた料理教室の常連客は、アーリーアダプタにあたります。イノベータは新しさそのものに引かれて買いますが、多くの人はそれを見ても動きません。アーリーアダプタが「よかった」と広めることで、アーリーマジョリティが動き始めます。
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翌朝の7人を動かしたのは、店の広告ではなく、一人の常連客の写真でした。集団の中で発言に重みがあり、周りの人の考えや買い物に強い影響を与える人をオピニオンリーダーといいます。店長は「広告を出すより、あの人に気に入ってもらうほうが、お客さんが来るのか」と首をひねりました。
3-5価値の提案
「ベーグルのよさは、もちもちした食感だよ」と店長は言います。ミナトは月曜の朝7時、駅前の歩道に20分立って、通勤客を眺めてみました。片手にスマートフォン、もう片方の手でおにぎりを食べながら歩く人が、何人も通り過ぎていきます。もちもちかどうかを気にしている人は、見たところ一人もいませんでした。
作り手が思う「よさ」と、使う人が求めるものは、食い違うことがあります。そこで、使う人の立場に立って観察し、共感するところから本当の困りごとをとらえ、案を出し、試作して確かめることを繰り返しながら答えを探す考え方をデザイン思考といいます。よく知られた進め方は、「共感」「問題の定義」「アイデアを出す」「試作」「テスト」の5つの段階です。一度で終わらせず、テストで分かったことを持って前の段階に戻ります。
駅前で20分立ったのは、「共感」の段階にあたります。そこから問題を定義し直すと、「おいしいベーグルがない」ではなく、「片手が空いていない朝に、手を汚さず食べられるものがない」になりました。ミナトは、ベーグルを半分に切って具をはさみ、紙の袋に入れたまま食べられる形の試作を店長に頼みました。
ここから基本情報!仮説を並べ、届ける価値を言葉にする
試作の前に、この企画が当てにしている前提を書き出しておくと、何から確かめればよいかが分かります。前提(仮説)を「外れたら企画が失敗するほど大事か」と「裏付けがどれだけあるか(どれだけ不確かか)」の2つの軸で並べ、確かめる順番を決める図をアサンプションマップといいます。大事なのに裏付けの少ない仮説から、先に確かめます。
| 仮説 | 大事さ | 裏付け | 確かめる順 |
|---|---|---|---|
| 通勤客は、歩きながら片手で食べたい | 大きい | 20分の観察だけ | 最初 |
| 通勤客は、280円なら払う | 大きい | アンケートの答えだけ | 2番め |
| 朝6時までに30個焼ける | 大きい | 試作で確かめた | 確かめ済み |
| 袋は紙のほうが好まれる | 小さい | なし | 後回し |
確かめた結果をもとに、こむぎ堂が通勤客に何を届けるのかを一言で言える形にします。客が抱えている困りごとや望みに対して、自社の商品が届けられる価値を、競合との違いも含めてはっきりさせたものをバリュープロポジションといいます。こむぎ堂の場合は「駅まで歩く5分で、片手で食べ終えられる、地元の米粉の朝ごはん」です。ベイクマートの食パンにもコンビニのパンにも、この三つがそろったものはありません。
店の名前そのものについても、同じように決めておくことがあります。企業が自分のブランドについて、客に「こう思われたい」と意図して定める独自の姿や個性をブランドアイデンティティといいます。こむぎ堂なら「町の朝ごはんを焼く店」です。これに対して、そのブランドが客に何を約束し、どんな価値を届けるのかを言葉にしたものはブランドプロポジションと呼ばれます(定義は論者によって幅があり、ブランドの価値の約束という意味で使われることが多い語です)。「毎朝6時に、その日の朝に焼いたパンがある」は、こむぎ堂が客に約束できる価値の一つです。
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はさむ形の試作を駅前で10人に試してもらうと、8人が「これなら歩きながら食べられる」と答えました。もちもちの食感は消えていません。食べる場面に合わせて、形を変えただけでした。
3-6マーケティングミックス
はさむ形のベーグルが決まると、店長は張り切りました。「値段は280円。あとは棚に並べておけば売れるよ」。ミナトは、駅へ急ぐ人が店の奥の棚までわざわざ入ってくるだろうか、と考えます。それに、ベーグルができたことを、通勤客はどうやって知るのでしょう。
売り方を決めるときに考える要素を、売り手の側から4つに分けたのが4Pです。何を売るか(Product:製品)、いくらで売るか(Price:価格)、どこで売るか(Place:流通)、どう知らせるか(Promotion:販売促進)。これを買い手の側から言い直したのが4Cで、客にとっての価値(Customer Value)、客が払う負担(Cost)、手に入れやすさ(Convenience)、客とのやり取り(Communication)です。この2つを対にした考え方を4P・4Cといいます。
| 4P(売り手) | 4C(買い手) | こむぎ堂の例 |
|---|---|---|
| Product:製品 | Customer Value:顧客にとっての価値 | 片手で食べられる、具をはさんだ米粉ベーグル |
| Price:価格 | Cost:顧客の負担 | 280円。並ばずに買えれば、時間の負担も小さい |
| Place:流通 | Convenience:入手の容易さ | 入口の横に、駅へ向かう人の目に入る棚を置く |
| Promotion:販売促進 | Communication:顧客とのやり取り | 店先の看板と、SNSでの焼き上がりの知らせ |
4Cの側から見ると、店長の「棚に並べておけば売れる」に足りないものが分かります。製品と価格が決まっていても、急いでいる客にとって店の奥の棚は「手に入れにくい」場所です。4つの要素は、どれか一つが欠けると、ほかの要素がよくても客には届きません。
ここから基本情報!要素の組み合わせと品ぞろえの計画
狙う客に向けて、4Pの要素を一つの方向にそろえて組み合わせることをマーケティングミックスといいます。「急ぐ朝の通勤客」を狙うなら、片手で食べられる製品、迷わず払える価格、入口の横という置き場所、通勤の途中で目に入る看板が、同じ方向を向いている必要があります。製品だけ通勤客向けにして、知らせ方が平日昼のチラシでは、組み合わせとして食い違います。
店の品ぞろえ全体についても、同じ考え方をします。客の求めに合わせて、ふさわしい商品を、ふさわしい時期・場所・数量・価格で用意するための計画と活動をマーチャンダイジング(商品化計画)といいます。朝7時台は入口にベーグルとコーヒー、昼は会社員向けのサンドイッチ、午後は年配客向けのやわらかい食パン、と時間帯で棚の並びを変えるのは、その一つです。
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売り方が決まったら、毎日どれだけ売り、どれだけ作り、材料をどれだけ仕入れるかを決めます。この3つは別々に決めると、売れ残りや品切れが起きます。販売の計画、製品をつくる計画、仕入れの計画をまとめて販売・製品・仕入計画といい、売る見込みを起点に、作る数、仕入れる量の順にたどって立てます。
| 計画 | 考え方 | 計算 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 販売 | 1日に売る見込み | (客数の見込みから) | 1日30個 |
| 製品 | 売る数に、試食と焼き損じの分を足す | 30 + 2 | 1日32個 |
| 仕入 | 1個に米粉80グラム、週6日分 | 32 × 80 × 6 = 15,360グラム | 米粉 約15.4キログラム |
販売の見込みが1日30個から40個に変われば、焼く数も米粉の注文も、同じ順にたどって直すことになります。ベーグルの値段を280円のままにするか、発売の時期にどう知らせるかは、第4章で決めます。
3-7CXデザイン
店頭での手ごたえを受けて、ミナトは通販でもベーグルの冷凍セットを試しに売り出しました。1週間で、商品のページは500回見られました。ところが、買われたのは15セットだけです。届いた客からは「袋の中でベーグルがつぶれていた」という声も1件届きました。
客がこむぎ堂と関わる場面は、パンを食べる瞬間だけではありません。SNSで知り、通販のページを見て、注文し、箱を受け取り、袋を開け、食べ、また頼むかを考える。商品を買う前から買った後まで、客が企業やブランドとの関わりの中で得る体験の全体をCX(Customer Experience:顧客体験)といいます。つぶれたベーグルは、味がどれほどよくても、CXを下げます。
よく似た語にUX(User Experience:ユーザ体験)があります。こちらは、製品やサービスを使う中で利用者が得る体験で、使いやすさや満足感を含みます。通販のページで、注文の画面が分かりにくく、途中でやめてしまった。これはページを使う体験、つまりUXの問題です。UXは、CXを形づくる接点の一つの中の体験だと考えると整理できます。
ここから基本情報!ページに来た人のうち何人が買ったか
Webサイトを訪れた人のうち、買う・申し込むといった、目的の行動まで進んだ人の割合をコンバージョン率(CVR:Conversion Rate)といいます。こむぎ堂の冷凍セットでは、15 ÷ 500 = 0.03 で、コンバージョン率は3%です。
ページを見た人が多いのに、コンバージョン率が低いなら、ページに来てから買うまでのどこかで客が離れています。ミナトが注文の画面を確かめると、送料が最後の画面にならないと表示されないことが分かりました。
基本情報の範囲ここまで
体験を積み重ねた先で、客の頭の中に「こむぎ堂といえばこういう店」という像ができます。自社の商品やサービスに独自の名前やイメージを持たせ、ほかの店との違いを客に認めてもらい、価値を高めていくための戦略をブランド戦略といいます。ベーグルの袋に「町の朝ごはん こむぎ堂」と印刷し、看板や通販の箱と同じ色にそろえるのも、その一つです。
ブランドへの信頼や愛着が育つと、客はほかに似た商品があっても同じブランドを選び続けます。特定のブランドに対して客が持つ愛着や信頼、そこから同じブランドを買い続ける度合いをブランドロイヤルティといいます。ベイクマートの食パンが100円でも、「朝はこむぎ堂」と決めている常連客は、ブランドロイヤルティの高い客です。
ここから基本情報!客が離れずに続けてくれる度合い
ブランドに限らず、客が企業や店に対して持つ信頼と愛着、そこから取引を続けたいと思う気持ちを顧客ロイヤルティといいます。カタカナの表記は揺れていて、顧客ロイヤリティと書かれることもありますが、同じ意味です。顧客ロイヤルティの高い客は、くり返し買い、知り合いにも勧めてくれます。
顧客ロイヤルティは気持ちなので、そのままでは数えられません。そこで、ある期間の客のうち、次の期間も続けて利用している人の割合をリテンション率として数えます。4月に冷凍セットを買った50人のうち、5月にも買った人が30人なら、30 ÷ 50 = 0.6 で、リテンション率は60%です。
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続けて来てくれる客の値打ちは、1回の買い物の金額だけでは測れません。1人の客が取引を続ける間に、企業にもたらす利益の合計を顧客生涯価値(LTV:Life Time Value)といいます。朝の通勤客が、ベーグルとコーヒーで1回400円の買い物を週3回、3年続けてくれたとします。売上は 400 × 3 × 52 × 3 = 187,200円 です。材料などの原価が売上の4割なら、利益は 187,200 × 0.6 = 112,320円 になります。
こう計算すると、袋の中でつぶれたベーグル1個の重さが違って見えます。失うかもしれないのは280円ではなく、その客がこの先もたらすはずだった11万円ほどの利益です。ミナトは冷凍セットの箱に仕切りを足し、つぶれた客には新しいセットを送り直しました。
3-8サービスデザイン
平日の朝7時15分、レジに4人が並びました。最後の一人は時計を見て、ベーグルを棚に戻して駅へ走っていきます。パンの味も値段も問題ありません。足りなかったのは、待たずに受け取れる仕組みでした。
パン屋が売っているのは、パンという物だけではありません。焼きたての時間に店を開けること、レジで手早く会計すること、予約を受け付けることは、形のないサービスです。サービスには、形がなく手に取って確かめられない(無形性)、作ることと使うことが同時に起きる(同時性)、担当する人や時によって品質がばらつく(異質性)、ためておけない(消滅性)といった性質があります。こうした性質を踏まえて行うマーケティングをサービスマーケティングといいます。朝7時15分のレジの待ち時間は、作りおきができない「消滅性」の表れです。
サービスの仕組みを考えるには、狙う客の姿をはっきりさせておくと迷いません。狙う客を、年齢、職業、暮らし方、価値観まで決めて、実在しそうな一人の人物として描いたものをペルソナといいます。ミナトが120人分のアンケートと駅前の観察から描いたのは、「朝倉さん、32歳、会社員。7時20分の電車に乗る。朝ごはんは歩きながら。現金は持ち歩かず、スマートフォンで払う」という人物です。
次に、朝倉さんがこむぎ堂を知ってから、買い、また来るまでの行動と気持ちの動きを、時間の順に1枚の図にしました。このような図をカスタマージャーニーマップといいます。横に「店を知る→立ち寄る→買う→食べる→また来る」の段階を並べ、それぞれの段階で客が何をし、何を感じ、店とどこで接するか(看板、SNS、レジ、袋)を書き込みます。描いてみると、気持ちがいちばん下がるのは「買う」の段階、レジに並ぶ時間でした。
ここから基本情報!利用者と一緒に作り、裏側まで描く
どう直すかを、店の中だけで考えなくてもかまいません。製品やサービスを使う人を企画や設計の過程に招き、意見を取り入れながら作っていく進め方を参加型デザインといいます。ミナトは通勤の常連客3人に頼み、閉店後の店で「前の晩に予約して、朝は入口の棚から受け取る」案を紙に描きながら一緒に話し合いました。
受け取りの棚を置くと、客から見えない所の仕事も変わります。客から見える接客の流れと、その裏で動く業務の流れを、時間の順に一つの図にまとめ、サービス全体を見えるようにする手法をサービスブループリントといいます。表には「客が棚から袋を取る」、裏には「前の晩に予約を締める」「朝5時に予約の数だけ焼く」「6時45分に名前を書いた袋に詰める」が並びます。カスタマージャーニーマップが客の側だけを描くのに対して、サービスブループリントは裏側の仕事まで描きます。
基本情報の範囲ここまで
土曜の閉店後、作業台の上に1枚の紙が広げてありました。左端には朝倉さんの姿、その右に「知る」から「また来る」までの5つの段階、レジの所には赤い字で「並ばない受け取り棚」と書き足してあります。試食台で「みんなに売れる」と言っていた店長は、紙を指でなぞりながら言いました。「みんなじゃなくて、この人に売るんだね」
試食台の三つの感想は、どれも間違いではありませんでした。高校生も会社員も年配客も、それぞれの集団の中では正しいことを言っていました。ばらばらに見えたのは、こむぎ堂が客を分けずに聞いていたからです。分け、狙う客を選び、その一人が店を知ってからまた来るまでを1枚の地図にすると、値段も、置き場所も、焼く数も、同じ方向に決められるようになりました。
残っているのは、その地図の最初の段階です。朝倉さんは、まだこむぎ堂のベーグルを知りません。280円という値段で本当に買ってもらえるのか、どうやって知らせるのか。ミナトのノートには、まだ答えのない問いが二つ並んでいます。